Ψ筆者作「東方三博士の訪問」ミニュアチュール(4×5センチ) 油彩

一年前の今頃、愛猫が厄介な病に罹った。「乳腺腫」、ほとんどが悪性と言う。絶対治してやる!一緒に寝ながらそう言った。以来闘いが始まった。「切るべきか切らざるべきか」、切ったら転移の可能性は高い。しかし切らなければ…、獣医とはインフォームドコンセントを重ね、セカンドオピニオンのようなこともやった。がんの性質を知るため本も二冊読んだ。がん細胞が浸潤して傷口ができたので、上っ張り(腹帯)を作る裁縫を夜なべして慣れない手つきで作ったし、毎晩汚れた腹帯を入浴時に洗った。
その頃たまたまフレスコ画の習作をしていたので、叶わぬ時の神頼み、祈るような気持ちで宗教画の場面に愛猫を描き加えた。
これほど一生懸命、自分の親にもやったことないようなことをやったのだから治らなければならない、絶対治ると思ったが一年後総ては徒労に終わった。
その自己主張や学習能力、やんちゃさ、甘える様、名前を呼べば暗闇からひょこひょこ出てくる。夕食の時間はみんなの「催促係」で「ゴハン!」と鳴く、寒い日はきょうだいとストーブの前に座り点けろと言う、行方不明になった時は死ぬほど心配した…人を裏切らない無邪気さ、ウソのない慰み、生命への愛おしみ、人はそういうものを求めるからこそペットと暮らすのであろうが、当たり前に日常性に存在していたその大きな価値が、ある日を境にドッと失われたのである。ペットロスは何度も経験したが、これほどの敗北感、喪失感を感じたのは初めてだった。他に代替えできる価値が人間社会にあるか!?そうしたものが失われことの喪失感、哀惜の念。
何につけても思い出し悲しみは今も癒えず、これも親ですらなかったことだ。
犬猫と暮らした(筆者は「飼う」という言葉は使わない)人なら誰しも避けられないことだろう。「あの穢れない、深く透明な瞳、三角の耳、冷たい鼻、柔らかい感触…もう一度抱きしめたい!」そんな感慨を何度も見聞きした。それが3年続いたという人もいた。後追い自殺したという話さえ聞く。
たかがペットと笑わば笑え。「犬猫にも劣る」という言葉があるが、元々人間が彼らより上などという根拠はどこにある?!
人間の欲や本能は動物並み。昨今目に付く「学習能力」や主体性の無さは動物以下。唯一のアドヴァンテージ「知能」もウソやハッタリ、虚栄心、背信、損得勘定に使う…どう考えても「犬猫にも劣る」!
それから独断を百も承知で言うなら、ガンはなにをやっても治らない、現代医学など猫一匹救えない、薬は効かない、民間療法や免疫療法など何の役にも立たない、祈りなど無駄、最後は捌け口のない諦念…これも、今までもの経験や情報も加味されてた偽らざる実感である。