イメージ 1
Ψ筆者作「若き日」 F20 油彩
 その「ヴァーチャル」(虚構)世界をさらに考察する。美術界について言えば、先の「日展問題」を契機に一体どれだけの問題点が噴出したか?このあたりはhttp://blogs.yahoo.co.jp/asyuranote/64489820.htmlにおいて仔細したので割愛するが、件の「日展問題」の噴出は必然の結果であり、この上なお黙して語らず既存の体系に支配される続ける者は最早良心を喪失したニセ芸術家と言うべきであろう。
 しかし虚構はそれだけではない。
 「アート」と言うのは最近特別の意味を帯びているように聞こえる。同様に「現代美術」と言う言葉もある。この「現代」の意味をどのように「現代アーティスト」たちは捉えているのだろうか?例えばその時代の最も新しいもの、前衛的なものという意味だけなら、ルネッサンスも印象派も二十世紀諸派も「現代美術」であったのである。したがって。先のルネッサンスのような芸術的価値があるわけではない、その意味で安直な「現代美術」は、時代が先に進めばダサい流行りもの、時代に取り残された遺物程度のものにしかならない。真の意味の現代美術とは「同時代美術」というべきで、2014年現在、「今日只今の時代的意味」を、その時代にしっかり腰を据えて見据えなければ捉えられるものではない。
 そして今その「時代」はどうか?文化全体でいうなら、商業主義、マスメディア、IT産業,ハイテクノロジーが支配する、利便性、話題性、ポピュリズム(大衆迎合)に覆われた時代と言える。例えば、CG(コンピューターグラフィック)、3Dなどは「視覚の驚き」を提供し、アニメ、漫画、ゲーム、テーマパークなどの刹那主義、享楽主義は最早飽食を通り越して、嫌悪感すら持つくらいである。
 例えば1970年近辺も、世界は台頭してきたテクノロジー、モータリゼーション、マスメディア、利便性や大量消費、大量生産(マスプロダクション)、加えてベトナム戦争と言う時代的背景はあったが、ラウシェンバーグ、リキテンシュタイン、J・ジョーンズ、A・ウォホール等アメリカンポップアートの旗手達はその「時代性」を逆手にとって、人間の側から時代を観るという十分に芸術的な仕事をした。つまり、そうした芸術の立場、人間の立場から主体的に時代に対処するというのではなく、如何に時代に乗り評判を得るか、その時代の「形やスタイル」から入るという、没主体的立場とは「ポピュリズム」(大衆迎合)は、他の分野の流行りもののダサさに観るようにその末路は明らかである。
 例えば、今日「スーパーリアリズム」風の傾向が一定に注目され、専門美術館も出来、一部美術雑誌などにも「凄腕」として取り上げられている。これらでは視覚を驚かすに十分な技巧に「芸術的価値」が認められているようである。
 その絵作り傾向は、美人だが特徴のない主人公を中心に据え、どこか思わせぶりなポーズをさせ、カーテン越しに柔らかい日差しが差し、観葉植物や諸々の小道具が雰囲気を添えるというパターンであろう。先ず言えるのはこうした絵が数多く見られるというのは、手続きさえ踏めば誰でもできるということである。しかしもっと大事なことは、こういう、再三言うが、「カラー写真を貼り付けたような」軽薄なリアリズムは、「造形の根源から骨組み肉付けされる」ような、西洋リアリズム絵画の骨太の造形性とは全く別物、いわば素人の視覚を驚かさせるだけの手練手管にしか過ぎないということである。このことは自分でそういう修行をしたらその違いは一目瞭然なのだが、ヨーロッパの美術館で本物を至近距離で観てもその一端は窺い知ることはできるだろう。
 そして更にここでの特別の視点で言うなら、それはCGや3Dやコンピューターやデジタルカメラの技術などで追求される「リアリズム」の技術と方向性が同一、言い換えれば結論は同じであり、いつかは統一乃至はそれらに吸収されてしまうという、予め芸術的意味を喪失したものということに他ならない。
 例えば絵画における「人の手を介す」事の意義は、その「プロセス」に投影される画家の美意識や造形思想や技術にあるのであり、プロジェクターなどのによる「転写テクノロジー」、「フォト」や「ペイント」などのアプリケーションソフトの機能、あるいは「お絵描きソフト」などからもたらされる「結果」において問われるのではない。その意味でそれはは最初からそういう芸術性・創造性が欠落したものと言える。
 以前コンピュータ技術を駆使してクラッシック音楽を再生するという試みがあったが、現代はこれと人間が奏でる本物の音楽との価値の差、すなわち邪道と本物の差すらわからなくなってきている「精神」の欠落した時代になってしまったということだろう。
 絵画世界においてまとめれば、先の「日展問題」を通じ明らかになった、団体やヒエラルキー、人脈などの「社会性」の上ある「社会的絵画」、もう一つは商業主義、テクノロジー、メディアに支配された「ポピュリズム絵画」、いずれも芸術のあるべき本質、真実に適わない「虚構」ということになる。 
 ところで他の分野においてネット世界の実業としての広がりや信頼感は周知のごとくである。文化・芸術とりわけ絵画など創造や表現に係る現実の場が件の虚構であるならば、ネット世界に新しい可能性を求めたくなるし、現にそういう動きはある。筆者個人もそういう立場であるし、多少効果も実感するものあり、今後その実(じつ)なる発展を期待するものがあるが、その前提として立ちはだかるの最大の障害は縷々述べたその「ヴァーチャル性」にある。そのヴァーチャルさは良識ある文化・芸術にとって、ネット上のウィルス、サイバーテロに類する具体的敵であり、除去すべき害悪であることに触れなければならない。
(つづく)