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Ψ上 筆者模写 「海の幸」F20 油彩
 下 青木繁作オリジナル
 
  
 青木にとって、坂本,福田たね、森田恒友を伴っての布良紀行はさながら人生のハイライトとでも言える時間であった、白馬会での受賞、たねとの恋愛、正に将来は明るく見え、青春を謳歌するにふさわしい、光あふれる南房総の漁村が代表作「海の幸」の舞台となった。ところが、この海の幸のモデルとなった現場を見たのは青木ではない。坂本繁二郎の方であった。この時の二人の会話をこんなものと勝手に想像してみた。青木、坂本は福岡県久留米の出身、当然九州弁である。筆者も九州生まれなので、記憶にある程度の九州弁の会話で想像してみた。本邦初公開!(^^)
 
 坂本「イヤー、あげん凄かもん見たことなか!真っ裸の漁師が太か(大きな)魚ば捕まえてこん棒で…血の海たい!あーっ思い出しても、気持ち悪るなる!とにかく凄惨な光景やった!!」
 青木「それ、もっと聞かせんか、漁師ってフルチン(こんな言葉なかったかもしれない)やったのか?」
 坂本「そげんたい、この辺の慣習らしか」
 青木「魚ってどげん魚か?」
 坂本「多分鱶とかそげんもんやろ、とにかく太かやつたい」
 青木「それ絵になるな!」
 坂本「冗談やなか!おい(俺)は好かんたい、あげん命ば粗末にするもん、いっちょん(ちっとも)すかん!!…」 
 青木「人間って所詮そげんもんたい!神代の昔からの…この海、光、裸の人間、ウーン≪太古の浪漫≫やなかか?。それ、頂いた!」
 坂本「ああ、よか。その代り能面頂くぞ、ワハハハハ!!」
 
人生は短く、青木の人生はさらに短かった。
辞世
≪小生は彼の山のさみしき頂きより思出多き筑紫平野を眺めて、此世の怨恨と憤懣と呪詛とを捨てて静かに永遠の平安なる眠りに就く可く候。≫
ケシケシ山碑文
≪我が国は、筑紫の国や白日別 母ゐます国櫨(はぜ)多き国≫
(おわり)
 
 追記:
 青木は不同舎、美校と、造形の基礎的修行のためのアカデミズムを経験しており、その造形性に破綻はないはずなのであるが、しばしば指摘されるのが「デッサンの狂い」である。確かに人と人の前後関係や奥行、手足の位置がおかしいと感ずる絵が何点かある。これをある評伝作家は彼の乱視のせいではないかと分析している。筆者はそれには異論がある。青木は眼鏡をかけていたし、視力の問題であのような出方はしないはずである。単純に「下手」だったせいもあるかもしれないが、もう一つ、作品の多くが、モティーフを見て描写したものではなくイメージで描いたものであり、そのイメージ優先のあまりアカデミックな委細はあまり構わなかったと言うことにあるように思う。
 このイメージ優先は実は青木の「天才」たる所以なのであるが、一方で厳格な明治アカデミズムに受け入れられなかった原因でもある。この海の幸にもそれは出ている。後ろから4番目の人物は顔は福田たねであるが体は男である。これは青木なりの必要なイメージの投影なのであるが第三者には不自然に感じるだろう。拙模写では体も何とか女性にしてやろうと思ったが限界があった。そのたねモデルの人物だが、ひざは鱶のこちら側にあるのに上半身は鱶の鰭の向こう側にある。画面ではひとり前の男にも鱶の鰭はかかっている。たねはこの男の一列向こう側なので鱶の厚みを考えるとたねのひざは鰭の向こう側にあるべき。このような不自然は「わだつみ…」でも見られ、晩年の「漁夫晩帰」でもっと極端となる。またその前の人物4人の顔の光の当たり具合では光源は下にある。砂の照り返しでそうなることもあるが、だとするとたねの顔の光の当たり具合がおかしい。青木は正面から光を受けたたねを描きたかったのだろう。確かにこの絵は「未完成の完成」なのでこういうことを言うのは野暮であろうが、筆者個人は、不自然なところは作品の早い段階から修正しないと気が済まないタチである。
 
取り敢えず思いついたBGM