Ψ筆者作 「武甲山初秋2」 F40 油彩
しかしこの油彩、つまり油絵具は当初から功罪相存する問題点を孕んでいた。例えば顔料の毒性は油彩に限ったことではないが、油性媒材を伴う油彩はその問題点が増幅されたり油彩特有のものが加わったりする。
まとめてみると、変色、退色、混色の適否、マティエールの脆弱性、保存・保護の方法、媒材そのものの変質等々数多有り、今日でも個々の絵具に限らず、溶剤、ワニス、関連素材についての「デメリット表示」は避けられず、制作段階でも様々な注意を要する「厄介」な素材であることに変わりない。しかし、それを「こなす」ことそのものは描き手の力量や資質に関わる問題であるに他ならず、逆に妙味を生みそれが別の価値に繋がったりする場合もある。わざと亀裂、落剝の効果を狙ったりする場合すらある。古色蒼然も古典絵画では味わいの一つである。
以前「黒を使うな」と主張する画家がいた。黒は濁りを生み、画面をくすませ、色味を殺し、活気のない画面をつくるという趣旨のようだが、筆者はただちに反論した。黒に限らず白、その間の灰色、即ち無彩色はトーンをつなぐためには必須であるし、画面にも落ち着きや格調、詩情をもたらすものと。しかし黒がその意味で諸刃の剣、危険な色であることには違いはない。いずれにしろこれも「こなし方」一つ、人間でもそうだが優れたものとは反面脆弱さや危険さを孕んでいる。人畜無害、八方美人は無難だが概ねつまらない、信用できないものの方が多い。
いずれにしろ、そうした問題あるにも拘らずそれは、西洋美術史上数百年を超える中心的素材として世界中の画家達に愛され、特定画家の名前をあげればほとんどそれは「油絵描き」に他ならないという事実に見られるごとく、水彩、テンペラ、フレスコ、その他素材各種あった昔も、アクリル等合成樹脂絵具の台頭ある今日にあっても後述する傾向を除きその地位は不動のものと言える。では何故そうであるのか?
先ず最大の魅力はその深み、重厚さ、味わい、格調等創る方も、観る方も、最高のものを求める場合の受け皿として他に優するという物理的価値。もう一つは、先に述べた、繋がりある微妙なトーンをつけられる唯一の素材であるという造形的価値、あるいはその重厚さの元となる、油絵具そのものの体質(ボリューム)等いろいろあるが以下この辺りのところを仔細考察する。
ところで、海外を方々回ったことがある人、一定の在外期間ある人から同じような話を聞いたことがある。それは日本の街や建造物のあまりのチャチさである。確かに体裁は良いが、新建材や合成資材で出来上がった、プレハブのようなボクボクした安っぽい外観で、機能性ばかりの無味乾燥な建物ばかり。ヨーロッパの石やレンガ造り、あるいは木造り、木組みの家や贅を凝らした装飾や諸々の「遊び」の空間、表情ある窓、それらから家や街に重さやぬくもり、文化さえ感じるのに比し、日本のは何の味わいもないというものである。挙句、「こういう所に金を使わなかったらそりゃ、先進国にもなるわな!」との冷笑となる。
もっと卑近な例で言えば、例えば庭の柵やデッキを木で作り、ペンキを塗って仕上げた場合、それは長い時間風雨や日光に曝されるうち、やがてペンキは禿げ、木も腐ってくるだろう。だからこれらをアクリルやプラスティックなどの新建材、科学合成資材で作ったら耐久性は抜群、色の塗り直しも、防虫、防カビの措置も必要ない。
それで万事めでたしならそれはロボトミーの世界である。人間はそうではない、前述したリスクを受け止めながらも、やはり物質に求めるものは、味わい、風合い、温度などであろう。元々本邦は木造り、瓦屋根の表情有る建築物はあったのだが、そうした感受性は戦後浸透した物質文化、機能性優先、生産性至上主義の国策によりどこかへ忘れ去られたようである。
ともかく建造物等ならそれで済むかもしれないが、絵画芸術はそうはいかない!
(つづく)