以下は共著「佐伯祐三 哀愁の巴里」からの拙文援用である。
≪大正から昭和にかけては、内外の環境の激動に本邦美術界も晒されることになる。美術団体も文化・芸術の国家統制に抗し、自由と独立の気概の下、新たな設立や四分五裂が相次ぎ、画家達の流入転出もめまぐるしいものがあった。その流れは、西洋の模倣、学習、傾倒は一定に避けられないとしても、そんな中から如何に自分達の創造を果たすか、そのことを美術界全体としても、画家個人レベルにおいても重要なテーマとして希求するという思想が背景にある。
一方、自我の覚醒、精神の解放、創造的自己実現のため、生活と戦いながらの新しい表現のための懸命の模索は、一方で心身の疲弊を伴うことがある。佐伯もそうであったが、その前後、志半ばで創造に殉じたその若い群像に改めて衝撃を受ける。
以下はいずれも40歳未満で早世した画家・彫刻家たちである。佐伯を中心にして前後足して約30年以内に生誕年がある。その死因について記載されているもの以外の※印は結核・肺疾患によるもので多くが喀血を伴っている。また、このデータ内に限らず一部の結核には神経衰弱や精神的異常を伴うものが見られる。医療の未成熟や栄養摂取の不満足はあるにしても、「不治の病」たる結核の蔓延などを痛感させられるデータである。(没年齢については没年から生誕年を引いた単純計算による)
※荻原守衛・彫刻 (1879~1910.31歳)
※青木繁 (1882~1911.29歳)
※中村彝 (1887~1924・37歳)
※中原悌次郎・彫刻 (1888~1921・33歳
岸田劉生 (1891~1929・38歳) 尿毒症
※田中恭吉 (1892~1915・23歳)
古賀春江 (1895~1933・38歳) 進行性麻痺(詳細不明)
※村山槐多 (1896~1919・23歳)
前田寛治 (1896~1930・34歳) 鼻腔内腫瘍
※佐伯祐三 (1898~1928・30歳)
※関根正二 (1899~1919・20歳) 肺炎
※横手貞美 (1899~1931・32歳)
三岸好太郎 (1903~1934・31歳) 心不全・胃潰瘍
靉光 (1907~1946・39歳) アメーバー赤痢(戦病死)
野田英夫 (1908~1939・31歳) 脳腫瘍
松本竣介 (1912~1948・36歳) 気管支喘息 ≫
東京の山の手線の北から、池袋、目白、(高田馬場、新大久保)、新宿と駅が続く。時代は少し前後するがその池袋には「池袋モンパルナス」、目白は「下落合グループ」、新宿には「中村屋サロン」と後代呼ばれるものにそれぞれ因む画家達の「梁山泊」があった。上掲の画家のうち半数はそのいずれかのグループに括られる。彼らの美術史上の共通点と言えば、早世したから当然と言えば当然なのであるが、結果的に彼等の画業はその、正に人生の暗闇に中から必至に、文字通り生命を賭して純粋に芸術としての価値を引っ張り出したという「事実のみにおいて」語られるというところにある。即ち彼らには本邦美術界の因習、権威主義、愚俗な社会性によってその創造や造形精神、モティベーションが支えられるということはなかった。これは近代の西洋美術史をみれば当たり前と言えば当たり前なのであるが、その意味で本邦特有の土壌では明らかに反主流であり、非エスタブリッシュメントである。それは時に異端、孤高、反骨などとと評されることがああるが、実はこちらの方がまともで、かの土壌の方が歪み異常なのだが誰も気づいてないというところか。
その中の「池袋モンパルナス」とは、当時池袋、西武線椎名町周辺に数多くのアトリエ村があったことに起因する。その中の「スズメヶ丘」と呼ばれる共同アトリエに松本竣介らのグループがあった。会の名「赤荳 会」と言い、竣介が「フルポン」などそれぞれあだ名がつけられていた。その中に「キスリング」という西洋画家の名前をそのまま持つ画家がいた。名を田尻稲四郎という。
「鳩」 SM 板 油彩
同作品は今筆者の手許にある。彼は筆者の岳父の近隣に住み、しばしば岳父に金銭的な世話になっていたようである。件の作品も何某かの代償なのであろうが、田尻夫婦には岳父の息子(即ち我が義兄)も懐いていたようで「田尻のおとーちゃん、おかーちゃん」と呼んでいた。ところが彼は貧しい上に酒乱であった。筆者は後年その妻、即ち年老いた田尻前夫人から話を直接聞いたことがあるが「酒さえ飲まなんだらいい人やったのに…」と述懐している。前夫人といったのはそういうことを含めた諸々経緯もあり離婚し別男性と大阪に移ったのである。田尻も名遂げることなく死んだが、前夫人は「東京にいた時(田尻と暮らしていた時)が一番幸福やった」と若き日の思い出をしみじみと語った。
仔細は省くが、田尻のみならず大なり小なりかの時代の画家には人知れず多くのドラマがあった。早世、貧困、病苦、別離、精神異常、自死…。それにもかかわらず、彼らの多くは今度生まれる時もまた画家になりたいと言うだろう。分からない人間には逆立ちしても分からないだろうが、絵描きとはそういうものであり、絵描きにとって絵画とはそういうものである。その芸術とはかの無様な「彩管報国」や先の中曽根康弘の言う「幇間(太鼓持ち)美術」、現下の「ポピュリズム(時代・大衆迎合)絵画」 より遥かに愛すべき信ずべき芸術であることは間違いあるまい。
拙作表題の「さらば友よ」とはそうしてこの世に一条の光を残し歴史の闇に消えって行った多くの画家達へのせめてものメッセージである。
(勿論アラン・ドロンとチャールズ・ブロンソンの同名映画のパクリであるが^^)