
先に現下の諸テクノロジーの「異常な発達」について触れた。PCや携帯は当たり前、ナビ、スマホ、ipad、映像世界ではCG,3D…ディズニーランドの例でもそれがもたらすヴァーチャル世界の「視覚的驚き」と疑似体験の享楽趣味の弊害を述べたが、この「似非リアリズム」テクノロジーは描画ソフト、デジタルアート、CG等二次元の表現世界にも及ぶ。HDR機能と呼ばれる、デジカメ写真を絵画的タッチに変えるものまで現れているし、複写やレタッチに係る機能は「本物そっくり」を生み出す。そのうち実際に絵具を使っての「コンピューター制御」によるデッサン、「色づけ」、「トーン付け」もできるようになるかもしれない。
このように昨今、テクノロジー側からの「リアリズム開発」例は枚挙に暇ない。詩、文学、映画、演劇等、古来より由緒ある≪芸術≫」が現下の市民社会に於いては、そういうものとしては「死滅」した。いずれもマスメディア化、商業主義や作り手側の「ポピュリズム」(大衆迎合)等に因する。そしてその波は絵画や彫刻にも押し寄せている。シリアスなものは嫌われ、テクノロジーによる「視覚の驚き」という現下の世俗的、刹那的享楽趣味に、絵画も歩調をあわせたものとなる。昨今、「リアリズム専門美術館」が出来、「凄腕」を特集する雑誌もでた。それらは、確かに、造形修行の経験のない、そういう素人の視覚を驚かせるだけのものはあるだろう。しかし、縷々のべたような状況にある中、絵画側からそれに近づく必要性も必然性もは全くないのである。
こうしたものと本来の絵画芸術の価値との識別ははっきさせておかねばならない。これは真の「絵画芸術」を死滅させないための火急の課題とも言える。
先ずそれらのほとんどが前のクーールベ、中村不折に関する記事で述べた、≪造形の本質的、根源的なところから骨組み、肉付けされた≫西洋の本来の古典主義絵画に見られるリアリズムとは違う。先に、クールベの絵について、描かれているモティーフや背景を写真に撮り、それをキャンバスに貼り付けたら、作品と同じものになるかと言えばそうではないと述べた。その「そうではない部分」に芸術の芸術たる所以がある。これを造形的イマジネーションが通い合う「幅」と言った。
これに引換え、前述した「流行りものリアリズム」はどうか? 中央にモデルの美人を据え、それもその傾向の作品ではみんな同じモデルを使っているのではないかと思わせるような、美人だが個性のない一類型を示しているモデルにどこか思わせぶりな表情やポーズをさせ、周辺にそれらしい観葉食物や小物を配し、カーテン越しに明るい光が部屋に満ち…といった状況をそのまま原寸大の写真に撮り、キャンバスに貼りつけたものと、作品として完成したものととを並べた場合、ヴィジュアルな価値にどれほどの差があるだろうか?答えは簡単だ。ほとんどないといってよい!その多くが写真を元に描かれているので、その元の写真とその写真を忠実に転写したものを比較したところで元に戻るだけの意義に過ぎない。
つまり、そこで「作品化」されたものは事象、事物の「表象」であり、その「外部情報」の伝達に過ぎず、その限りでは芸術の要件を満たし得ない。つまりそれは、先のクールベや不折に繋がる、前述した≪造形の根源的なところから骨組み、肉付けされ、事象や物の存在の本質に迫る≫ような、絵画芸術としてのリアリズムとは全く異質なものである。先に述べたような、精一杯のテクニックで「全部見せ」、これ見よがしの「視覚の驚き」に到達したヴァーチャル趣味とは今や他のメディアにゴロゴロしているのである。
(つづく)