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Ψ 筆者作 「青い排水溝」 P15 油彩

さていろいろ述べてきたが、このようなことを言うと、すぐレッテルを貼って何某かの既成概念で括りりたがる単細胞はうようよいる。曰く「反日」、「売国奴」、「国賊」…いずれも受け売りの、そういえば難しい理屈は言わなくてよい、自己の知性の低さを露呈するだけのものだが、「三国人」とか「朝鮮人」だとか「在日」だとかの誤ったレッテル貼りは迷惑なので念のために言っておこう。
 筆者の父方の祖先は薩摩藩の士族だった。薩摩藩は周知のごとく明治維新以来、討幕の功も有り、多くの国家の要職についた者がいたが、巡査や一般の役人(いわゆる公務員)も薩摩出身が多くいた。因みに同じ討幕の主役長州族では、吉田茂、岸信介、佐藤栄作等歴代総理経験者が居り、いずれにしろ薩長は「国家意識」、「支配・管理者志向」は他県に優すると言える。
 そういうわけで父方実家も日本帝国主義の中国、朝鮮半島進出の足跡に軌を同じくするように、居を移動した。おそらく満州国や朝鮮総督府に関連する仕事をしていたと思われる。父親の話では小学校の校庭のような広い庭の家に住み、朝鮮人を使用人に使い、セッタ―という犬を飼っていたそうだが、ホラ半分にしても、それらしい写真は残っているし、当時の日本の中国、朝鮮での優位さを思い知らされる。
 ところが、戦争に敗れた瞬間から、父一家は総てを失い丸裸の引き揚げ者となった。このような日本人は数多おり、取り残された子供は残留孤児となった。因みにかの吉田茂以降長州族は要領よく生き延び、戦後一転して親米ルートを敷き何の因果か今日の安倍晋三までに至っている。
 つまり、敗戦により子々孫々が受け継ぐべき財産は鍋釜一つなく、筆者の父親もプライドばかりあって世の中への適応性も、勤勉さも無く、お陰で筆者はどれほど苦労したことか!…そんなことはどうでも良い!つまり、筆者は「ド日本人」であり、こうしたことからも縷々述べたような考え方を単なる知識の寄せ集めや論理の必然の思想ではなく、何か「DNA的」に感じる部分もあるのである。

 話を続ける。昨今の改憲再軍備に対する見解は先に述べた。一言でいえば、「日本を取り戻す」が聞いて呆れるそれはアメリカへの追従強化が本音である。対中国戦略や対北朝鮮対策で「改憲再軍備」しかなかったならそれは「好戦主義」でなかったら無能政府のやることである。尖閣、竹島はどう考えても国同士の全面衝突の危険性を孕むほどのスケールを有さない。事を拡大させて「国難」を煽り、先の本音を隠した御都合主義スローガンの口実である。万一限定衝突があっても現行憲法下の「専守防衛」で対応できる。そのため自衛隊を作ったのだろうが。
 しかもこの改憲再軍備は「総保守翼賛体制」であっても「右翼独立派」と「親米追従派」では意義は違って然るべきである。総論賛成各論反対で混乱は必至であろう。昨今の「旗振り役」のお歴々の発言なども支離滅裂ではないか。
 こうした流行りもののようなエネルギーのある動きに拍車をかけるのが、日本人の底流にある中国、朝鮮に対する「人種差別主義」である。かの暴走老人は、「尖閣」以前に人種差別主義者であった。彼の「支那」「三国人」発言は共産主義云々は関係ない。先の夏目漱石の例で挙げたが、当代きっての文化エスタブリッシュにしてあのような薄っぺらなことしか言えなかった。
 「人種差別」とは、先に憲法の立憲主義のところでも述べたが、人類が進歩する過程で克服すべきものとして排斥の努力が積み重ねられたテーマである。フランスの「自由・平等・博愛」、アメリカの奴隷解放、公民権運動、ナチスのホロコーストや南アフリカの「アパルトヘイト」への全人類的否定と反省、それら人間としての普遍的価値としての反人種差別の精神は各国の憲法にも反映されているはずである。その意味で「平和」も普遍的テーマであり、それをうたった魁たる本邦憲法への誇りをもてない者の人種差別は必然性がある。
 この世界が否定した恥ずべきものが時流を得て再び頭を擡げてきたのだ。人種差別とは思想ではない。それを持つ人間の知性、品性、性格、趣味、五感等全「負」の人格の反映であり、矯正するすべはない。オールオアナッシングであり、組しないなら排除する、最後はやるかやられるか以外にない。
 それが社会全体にまで蔓延し、政治の改憲再軍備と結びついて昨今の右翼・保守・反動の時流を作り出しており、その一翼を担っているのが大手マスコミの、情報操作、世論誘導である。

 ここは既出記事の援用となる。(一部編集)
 ≪これは実は60年以上も前の、故伊丹十三の父で映画監督であった伊丹万作の「戦争責任者の問題」という一文である。5年前に当ブログで取り上げたものであるが、最近某紙が同じものを偶然取り上げていたが、全く今に通ずるものとしての感慨を持つ。
【…そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。
 このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかつた事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかつた事実とまつたくその本質を等しくするものである。
 そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。
 それは少なくとも個人の尊厳の冒涜(ぼうとく)、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。
 我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかつたならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。
「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人人の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。…】
 …中略…今、大局を見誤った威勢の良いだけのスローガンやパフォーマンスばかりが目につく。文化かくのごとし、アメリカでさえ「右傾化」と評価するような動きは確実にこの国を一定の方向に持っていくだろう。 この国の悲劇は文化が眠っていることだ。昨今各メディアの軽佻浮薄、保守化は目に余る。権力が国を一定方向に持っていこうとする場合、それが危険性や不合理を孕むものである場合、権力の無い側に立って疑問や警鐘を呈するのがメディアを含む文化の役目であろう。それが鳴りもの入りで権力の尻を叩いている。…略 ≫
(つづく)