先ず、前回「けじめ」について言及したが、上記文中の「鬼畜米英」が一朝にして「永遠のパートナー」に代わった変わり身について、その「鬼畜米英」のために死んだ数多の犠牲者に対する政治的総括が政府によって為されたことはない。
いずれにしろ、この「改憲の意義、目的」は重要な問題である。即ち同じ改憲論と言っても180度意義が違う二つの立場がある。一つは完全な自主的軍隊、もう一つは日米同盟強化を前提とした軍隊である。前者について言えば、先に述べたが、それは事と次第によってはアメリカとも一戦交えるというものである。(どうせ勝てないので)最初からアメリカとは戦わない事を前提とした独立した自主的軍隊などあり得ない。したがって自主独立を主張するなら先ず、日米安保破棄、同盟関係解消を言わなければならない。そして、いざとなったらアメリカとだって戦える軍隊にしなければならない。核武装、徴兵制は必須である。否、本当に「国家の尊厳、自主独立、日本を取り戻す」というならそうでなければならない。
こういう改憲論は現実としてあるのだ。かの暴走老人に代表される右翼勢力はこの立場である。そうなれば「原発を無くせば経済が…」どころか、より遥かに大きいリスクを覚悟しなければならない。軍事大国の下、国民生活はメチャクチャとなろうが、当初のお題目には一応適う。
もう一つは、日米関係をあくまで重視し、アメリカの世界戦略に沿った軍隊の創設のための改憲という自民党を中心とした改憲論である。実態は先に述べた通り「アメリカ軍日本支部」である。この「日本支部」が、従来の基地提供以上の貢献をするため「集団的自衛権」の行使を行いやすくする、そのための改憲論である。これが中国の東アジア進出へのけん制となるということらしいが、これは一方で「世界の警察」アメリカの世界進出には協力するという、一国の主体性と縁もゆかりもない話で後述する。
ともかく、一口に改憲派と言っても縷々述べた事由により中身は支離滅裂なのである。改憲されたらこの二者による抗争、混乱は必至だろう。
話を「戦争抑止力」に戻す。「戦争抑止のための改憲再軍備」とは滑稽とすら思えるレトリックであるが、これは本当にそうなるという保証のないスローガンどころか一層危険さを孕むものになるだろう。
有事対応レベルを仮に1から10に設定したとする。自衛隊が現状で対応できる現下の「専守防衛」体制をレベル5だとすれば、改憲後の「集団的自衛権」の行使が可能な体制はレベル8ぐらいとなる。これを相手国から見れば、レベル5の段階では手は出せなかったがレベル8になったら「自国防衛」を大義名分として先制攻撃ができることになろう。例えば、その国が自国を攻撃するために出動したアメリカ艦船に「防衛のため」先制ミサイルを打ち込もうとした場合、そのミサイルを「日本軍」が迎撃(集団的自衛権の行使)出来ないようする合理的な方法は、その日本軍の迎撃ミサイル基地がある沖縄を含む日本本土を攻撃すること(口実を含む)なのだ。
もしそうなるとしたら、日本軍は「抑止軍」どころか「藪蛇軍」となる。これは一例だが、そうならないという保証はなく、集団的自衛権とはまことに危険なものとなる。
さて、改憲派のベイシックな主張に「日本が他国から侵略されたら軍隊無くどうして国を守るのだ!?」という主張がある。それでは何で自衛隊(警察予備隊)を作ったのかということになる。つまり、自衛隊には、改憲しなくても現下の憲法下で専守防衛権は認められているのである。また、先の実体と条文の齟齬についても、今までそうしてきたのだからわざわざ国論を分裂させてまで憲法をいじる必要はない。では何故改憲が必要なのか?集団的自衛権行使のため専守防衛の枠を超える軍備増強が必要だからである。アメリカの東アジアにおける戦略上のアドヴァンテージを肩代わり補完する、その分アメリカは西アジア、アフリカ、アラブに「世界の警察力」を拡大できる。このシフトは実はアメリカの要請である。日本と同じくアメリカと同盟関係にある韓国はベトナム戦争に参加した。イラクでPKO法によりは派遣された自衛隊は戦闘行為はしなかったが、今度はそうはいかない。改憲再軍備は単なる「尖閣」などの「防衛強化」に終わらず、集団的自衛権行使に加え、「国際貢献」による実戦、最悪全面戦争の可能性などその危険性は限りなく増大していくのである。
改憲論の口実の一つがその尖閣である。
「尖閣」をめぐり特定方面からいろいろな声を聞いた。曰く「国家主権」、「民族の主体性、尊厳」、…、自民党の選挙用ポスタ―にも「日本を取り戻す!」とあった。笑わせてはいけない!本当にそう思うなら先ずやるべきは前述したが、日米安保の破棄、日米同盟関係の解消を叫ぶべきではないか!頭のてっぺんから足のつま先までアメリカに「占領」されていて、国家の主体性や「日本を取り返す」とは恐れ入谷の鬼子母神である。もし脱アメリカが無理なら、それを棚に上げて、即ち強いものには巻かれ、一方の側にだけ強気に出る、これは正に御都合主義スローガンの何物でもあるまい。
その尖閣、そもそもの発端となった、かの「暴走老人」が個人所有の土地を都が買い上げ、やがて国家所有としたことにある。これが世界に向けての「領土保全」の根拠となると本当に考えているのだろうか?法的に行われたのは国内の不動産取引上の「所有権移転」の手続きだけである。例えば、現に行わているが北海道の土地や都心のマンションを中国の企業や個人が買い占めたとする、その瞬間に其処は「中国領」となるのか!?否、日本の諸々の法体系の支配を受ける日本領であることに変わりはない。これが「所有権移転」の実態である。即ちそれはただのパフォーマンスであり、そのパフォーマンスで在中国の多くの日本企業や個人が被害を受けたのである。
逆に言えば現下の「右傾世論」煽動にはかのパフォーマンスは成功した。暴走老人は密かにほくそ笑んでいるだろう。ただそれは暴走老人個人の「趣味的スローガン」の満足でしかない、彼が曝け出したのは趣味が知性を超えられない人間的矮小さである。正にそれは「思想」ではなく「趣味」である。彼は反共産主義以前に、「支那」、「三国人」を繰り返す「人種偏見・差別主義者」であった。
これは新大久保辺りでヘイト・スピーチを繰り返す貧困で哀れな「知性」と変わりない。ともかくこれは日本人に伝統的に潜在的にあった人種偏見・差別主義を掘り起こし、「大陸コンプレックス」を解消する起爆効果となった。
ところで、筆者は美術史学出身であるが、西洋美術のみならず、東洋、日本美術史も齧った。絵画、仏像彫刻、寺院建築、陶芸その他を通じて、本邦と中国、朝鮮とは飛鳥・天平の昔以前からの深い関係がある。この2千年に至らんとする日本と大陸、朝鮮半島の関係は、吹けば飛ぶような島の領土争いで塵芥に帰せしめ得るものではない。何も現下の日中関係は経済問題だけではないのである。
そもそも、本当に平和を願うなら外国との関係は、「一に友好、二に外交、三に交渉、ずーっと無くって最後に専守防衛」たるべきであって、その努力はしないで、最初からケンカ腰で戦争をちらつかしながら自国の利益を図るというのは無能で野蛮な政府のやることである!つまり、「尖閣・竹島」は、当事国との歴史的、文化的、経済的、人間的交流の経緯もあり、どう考えても「国難」を想定せしめる根拠たるスケールを有さず、ための改憲論は「中国嫌い」、「好戦主義者」と国家のアイデンティーを軍備にしか見出し得ない低級な為政者、そしてその威勢の良いスローガンにしか自己のアイデンティテ―を見出し得ない趣味的追従者の論理である。この辺は仔細後述する。
(つづく)