イメージ 1

Ψ筆者作 「棚田の遠足」 P15 油彩
 次は既出過去記事の援用からである。(一部編集)
≪以前、ある末期的病に臥す人を見舞った家族が帰り際に「がんばって!」と言ったら「もうがんばれない!」と怒ったように言われ、返す言葉がなかったと言う新聞記事を読んだことがある。あるいは鬱病などのある種の病気にはがんばれなどという励ましの言葉は逆効果だと言う話を聞いたことがある。
 今「がんばれ日本、がんばれ東北」とか「自分ができることをしよう」とか、支援、励まし、連帯等そういう方向の「精神論」に訴える言辞が多く目立つ。
  もちろん未曾有の甚大な被害をもたらしたこの震災から復興を図らなければならないので、国や地域、政治、経済等社会性においてそれは、必要であり結構なことなのだが、正直個人レベルにおいて、家族を津波に飲まれ、家を失い、人生の総てを奪われたような、深い悲哀と絶望にある人には「がんばれ!」などという言葉がどれほど届くだろうか疑問に思う。
 そういう人の中には、安直に言われる「がんばれ」と言う言葉に、「今更何をがんばれと言うんだ!」と怒鳴り返したくなる人もいるのではないか?そうした配慮もなく、安易に画一的にその言葉だけで括ろうとするならこれほど無神経で時に残酷なことはないだろう。
 ではどうしたよいか?何もできない!そういうことを認識しておくこと以外になにもできない。
 誰でもいつか深い悲哀と絶望に向き合わなければならない。やがてそれは諦念へと変わり、その絶望や諦念を突き抜けた、莫とした透明な時空の中で自我の「原存在」と向き合う、人生を考える、自分が突然そういう状況におかれたら?準備はできているだろうか?そういう思いを共有することしかできない。こういう世界に入り込めるのは宗教以外には芸術しかない。今の「遊んでいる」芸術にそういう力はない!
 ともかく、これからPTSDや鬱病、自殺者が増えるかもしれない。「がんばれコール」ばかりではどうにもならないだろう。
 つでいにいうなら、スポーツ選手や芸能人やマスコミが、その何某かの行為につき、大した繋がりも必然性もないのに、「被災地に捧げる」、とか「元気を与えたい」とかの言葉をつかっているが、いささか飽食気味。そうしたことは受け取る側の被災者が決めることだ。あまり言い過ぎると安っぽく押し付けがましい。 ≫

 先のは2011年4月16日の拙記事だった。その4日後の4月20日、この主張を裏付けるような毎日新聞を目にする。
 ≪被災者支援について調査・提言している関西学院大学教授で精神科医の野田正彰さん(67)が15、16日、宮城県沿岸部に入り遺族や被災者の話を聞いて歩いた。東日本大震災では2度目の被災地入り。家族を失って1カ月が過ぎた遺族らと接した野田さんは「復興ばかりに重点を置いて『がんばろう』を繰り返せば、遺族の疎外感と喪失感は強まる。復興支援は一番つらい遺族の視点に立つべきだ」と安易な復興ムードに警鐘を鳴らす。…中略…
 野田さんによると、遺族は被災直後、家族を失った現実をなかなか受け入れられない。遺体が見つかり数カ月が過ぎたころ、喪失感に襲われる人もいるという。そんな時「遺族に寄り添って、悲しみを共有してあげることが大切」という。
 野田さんは「遺族ほど悲しみや苦しみに耐え、頑張っている存在はいない。周囲が死を見ないようにして『頑張ろう』と復興ばかり強調すれば遺族は『放っておかれている』と思う。喪失感は増し、最悪自殺という手段を選択させてしまう」と遺族の孤立化を危惧している。≫

 仕事を失った、家を失った人たちは何とか頑張ることができるかもしれない。しかし、家族を失った人はどうやってがんばればよいのだ!?その喪失感や絶望感は想像に絶する。いや、家族だけではない。手塩にかけて育てた家畜やペットの生命…そうした思いを少しでも感じるなら、安易に「頑張ろう」とか「絆」だとか「被災地に勇気を与える」などという、最大公約数的言辞で未曾有の大災害を括ることに躊躇するはずだ。ところがそれら言辞を選挙用ポスターに見たり、原発は必要だと言ったり、復興予算の使われ方の杜撰や伝え聞くような諸々の胡散臭さを知る時、一体それがどこまで本当か、これは粗雑な集団的スローガンではないのか、そのようにさえ感じるのである。

 この粗雑な集団的スローガンの際たるものが昨今の「改憲論」である。これは多言を要す。先ず既出記事の援用から始める。(一部重複、同再編集)

 ≪…中略…やがては310万人に及ぶ戦争犠牲者、「ヒロシマ・ナガサキ」という究極の破滅を伴う亡国の道をたどったのである。
  その亡国の淵で兵士、銃後を問わず、国民に課せられたのが、「鬼畜米英、撃ちてしやまん、一億玉砕」の精神論である。そしてその実践により数多の戦争犠牲者を生んだ。
 ところが負けたとたんに手の平を返すように「鬼畜アメリカ」は「恩人」、「永遠の永遠のパートナー」となり、今や頭のてっぺんから足のつま先まで、アメリカ無しでは夜も日も明けないではないか!
 あの戦争はなんだったのか!俺たちは何のために死んだのか!と「英霊の声」ならずとも問いかけたくなる、正に古今東西歴史上稀にみる、壮大な「ご都合主義」的大転換と言わなければならない。
  それを「無駄死」としないための方途は二つしかない。一つは世界に向けての誓い、宣言であったはずの憲法9条による平和主義に徹すること、もう一つは、事と次第ではアメリカさんとのリベンジマッチも辞さないという、主体性ある強大な軍備を備えることである。勿論アメリカに対峙できる軍隊とはGDPの何割かに当たる膨大な軍事費や「徴兵制」、「核武装」を要する。筆者は反対だがこれはこれで筋は通った話ではなかろうか?
 ところが、現下の「総保守翼賛体制」下で語られているのはその両方ともでない、アメリカの世界戦略に沿い、これを補完するための、言わば「アメリカ軍日本支部」的軍隊の創出である。とするなら改憲論に当たり、中国等一方の側だけに向けて、「国家の主体性や民族自決」など都合よく叫ばないことだ。…≫
  (つづく)