≪… ともかく、芸術を取り巻く背景は大きく変わった。戦乱や不治の病により人間存在の脆弱さを前提としなければならない時代があった。未成熟の生産社会にあっては、人は貧困や差別や人間疎外等の混沌の中では生存にかかわる戦いを強いられた。そうした中にあって各種芸術は、緊張感とリアリティーをもって個々の人間に直接語りかけることができたのである。
そして今時代は確かに、豊穣な物質、便利な暮らし、享楽文化を備えるという意味では一応の成熟を遂げた風だが、それは、人間の苦悩や迷いやは不安からの解放を意味しない。次から次に起こる社会的問題は枚挙に暇がない。鬱病や自殺、昨今のヴァーチャル人間、オタク人間の起こす諸諸の犯罪的行為はGDPや長寿社会の数値とは関係なくおこっているのである。それらは姿かたちを変え、むしろ一層複雑に、人間存在に係るあらたなテーマを投げかけている。
問題は、そうしたテーマは置き去りにされたまま、芸術がそれに対応した新たな創造を成し得ず、人間の側ではなく「時代の側」に傾斜してしまったということであろう。一方に国際政治、グローバル経済、生産と消費の諸システム、マスメディア、テクノロジー、商業主義文化、IT社会など有り、一方に、そのそれ自体が生命体であるごとく巨大に膨れ上がったモンスターに管理され、誘導され、情報操作され、人畜無害の「文化的価値」を提供され、流行りものや話題性に群れ集まる大衆有り。…中略…
ともかく「時代の側」の時代とは、その双互に展開する「集団的メカニズム」そのものである。それらに迎合し、その利害関係の中でいかにアドヴァンテージを得るかのみを考え、既成の権威や因習に壟断されまくるだけの文化芸術もそういう形で集団的メカニズムに組みされたものとなる。
つまり、かつて芸術の「送り手」と「受け手」の関係は、「個」対「個」であった。今はそういう意味で「集団」対「集団」なのである。…中略… コンピューターグラフィック(C G)を駆使したアメリカ映画がもたらす「視覚的驚き」は、当初は確かにそれなりのものがあった。しかし、何度も見ると飽きてくる。そればかり見せられると、その子供じみた他愛なさにウンザりする。アニメは世界に誇る日本文化だそうだが、申し訳ないがこの世は、現実味のない夢ばかり見せられて「感動させられたり」、「癒されたり」する単純な人間ばかりではないのだ。そのアニメのフィギュアが「アート」を名乗るのは象徴的だが、アイロニーとしてなら安っぽいがアートと認めてもよいが。…以下略≫
ここで言いたいのは、先の区分に述べた「本質」に関わるものであるべき文化・芸術が「現象」化しているということが、後述する「アソビ」に大きく関係しているということである。
繰り返すが、先の「二元論」に立てば、文化・芸術は人間の側に立って、「無為」「本質」「個」についての価値を追求すべきものとなる。これを創る側の立場で言うなら「我が足は大地のみにぞ支えられ、我が頭上には白日のみぞ輝ける」ということになる。つまり、頭上には何の権威も序列もなく、足は何の因習、情実、世襲、人脈からも支えられない、生かすも殺すも己次第ということになる。事実世界の優れた芸術とはそういうものだったはずである。
ところが本邦のは残念ながらそうではない。これには本邦特有のの歴史的経緯と無関係ではない。やや専門的になるが、この経緯を最も身近な美術界で述べる
≪明治維新以降の国策のスローガンとは「富国強兵・殖産興業」、「欧米列強に追いつけ追い越せ」の掛け声であり、諸外国から持ち込まれる情報に驚き、価値観の転換を迫られ、遅れを取り戻すべく諸制度の整備を急いだ。これは外交、政治、経済のみのことではない。文化・芸術もその国策の一環として位置づけられ、絵画においても、西洋画の明暗法、立体感、遠近法などの新しい造形性の導入は必然のことであった。例えばそれは、それまでのりんごを「丸」で描くと言うのではなく、「球」で描くと言う合理性、科学性を求める。こうして、油彩と言う新しい素材を得ての造形アカデミズムの修行体系が確立される。 こうした背景の中から、やがて本邦洋画界は
〇明治美術会(浅井忠ら)→不同舎→太平洋画会→太平洋画会研究所(ヤニ派・古典主義系)
〇白馬会(黒田清輝ら)→白馬会研究所(紫派・外光派系 )
の二系統を中心とした勢力に大別される。
この両者はともに「官展」である文展(文部省美術展)、それを引き継ぐ帝展(帝国美術院展)の傘下におかれ互いに勢力を競った。また工部美術学校から東京美術学校西洋画部にいたる教育・修行機関も官立であり、美校の、浅井忠の「浅井教室」、黒田清輝の「黒田教室」はそのまま前二系統の反映であり、その後の藤島武二らを加え、洋画界の指導者的立場にあるものは、官展のボス、官学の教官、即ち文化官僚であり、黒田にいたっては後に「貴族画家」たる貴族院議員となった。
つまり本邦洋画界はその草創期から、官展、官学、文化官僚、また褒賞や留学の制度、絵画共進会や勧業博覧会などの発表の場を通じて、明確にその意思を持った、強力な国家統制、国家支配の中におかれていたのである。
川端画学校などの民間画塾もその修行機関であり、本邦近代洋画界に名を残した画家達でそれらのいずれかに連なっているいない者はないといってよい。というより、何かに連ならなければ画家として認知されなかったというべきだろう。
当初「文展出品者の出品を禁ず」をうたい明確に「在野」を旨とした「二科」以下も、例の「松田改組」と言われる国家による芸術抱きこみ策に飲まれる。やがてその国家支配・統制は戦争に傾斜していく国家主義の中では一層顕著になり、「彩管(絵筆)報国」はスローガンとなりやがて「日本美術報国会」や「戦争美術展」に繋がる。この日本美術報国会の会長が横山大観であり、彼の「富士山」は多く「国威発揚」のため描かれたものである。その「従軍画家」などの生き残り画家らが敷いたレールの上に今日の美術界の現況ある。こうした「伝統」は、「日展」、文化勲章や芸術院会員などの国家褒賞制度や各種ヒエラルキー、門閥、師弟関係などの形で本邦洋画檀に今なお生き続けているのである。
そうした構造が中心の土壌の中で個々の画家がその立場を主張するにはどこかの会派に属し、自分がいかにエライ画家であるかを示すような「曰く因縁故事来歴」を作品に添付する、すなわちこれでもかこれでもかとあらん限りの画歴(私はこれを「ガレキの山」と言っているが)を添えるというシステムが常態化され、画商もそういう付加価値で値を吊り上げ、買う方も何某かの「有難み」を買い、画家はいっそうのステータスやアドヴァンテージを求め、俗物化し、そういうメカニズムの繰り返しのうちに、芸術が「集団的メカニズム」の中で展開するという、世界に類をみない歪んだ美術界・市場を形成するに至ったと言える。≫
(つづく)