以下は、当該者による筆者関係のものであるだけに、その責任上かねがね是正をしておかねばならないと思っていたものである。 一例を挙げる。他にも数多あり必要があればアップする用意がある。
≪ハッチング≫
≪ハッチングとは細い線をいくつも「平行に」引いて描くこと…≫というのはその真の意義を分かってない完全な誤りである。ネットで検索したのであろう、確かに「平行に」と言う言葉が出ていた。「平行に」線を引くのは不動産広告の「現地」を特定するチラシやの建物の影などを示す建築パースなど製図の世界ぐらいで、造形上のハッチングとはそんな単純な技法ではない。
この技法も造形の本質、この場合は描画素材と関係している。油彩が画期的な素材として世に現れ、今日ある造形世界での地位を占めるようになったのは、その重厚で味わいあるマティエールもあるが、それが遅乾性であり他の素材にはない「ボカシ」がきくというところにある。この「ボカシがきく」というのは、微妙な繋がりあるトーンを表現できるということであり、これが絵画のリアリズム表現を格段に進歩させた。
それでは、油彩以前の素材、テンペラ、フレスコは、どのようにしてトーンをつけたか?この必要性から生まれたのがハッチングである。しかもこのハッチングの 意義は単にトーンがつけられるということだけではなく、同時に立体感も表現できるという、速乾素材のリアリズム表現には有効な技法である。またハッチングはアクリル画にも使われる場合がある。アクリルは速乾素材なので微妙な繋がりあるトーンがつけられない。かといって、エアブラシのトーンはマスキングが必要だし、機械的、無機的なトーンとなるので、これらを嫌う場合ハッチングを行う。
。[絵画]は一般に「painting」と英訳するが、これは、正確ではない。正確を期すならフランス語の「tableau」と言うべきだろう。なぜなら、印象派前の古典主義系絵画は「painting」ではないからである。paintingの概念は「ベタ塗り」である。絵画がベタ塗りとなったのは印象派以降である。ベタ塗りとは、多少の地塗りや手練手管はあるにしても、筆につけた絵具により、モティーフの形や色を直接キャンバスに塗つけることである。ハッチングはこの「ペインティング」の概念とは識別さるべき重要な技法なのである。
卵テンペラは卵黄のみ(マグラ)とグラッサ、ミスタと呼ばれる混合画法がある。そのテンペラ・ミスタはフランドル、テンペラ・グラッサはボッチチェルリに代表されるイタリアで多く描かれた。このミスタは、テンペラ媒材による描画と、油性媒材の透層による着色を交互に行う画法であるが、この描画法である「白色浮きだし」もハッチングで行う。ハッチングとはこのような伝統ある懐深い技法であり、単なる「雨降り描き」として一般的に応用もできるが、本来の意義を知らず、迂闊に使うと他はベタ塗りなのに部分だけハッチングというアンバランスを生む場合がある。
≪「色を混ぜる」行為には大きく分けて
「混色」…絵の具どうしを物理的に混ぜる
「透層」…乾燥した下の絵の具の色と色フィルムのように上に乗せる絵の具の色を光学的に混ぜる
「並列」…となり合う違う色を心理的に混ぜるという方法があります。≫
上記は当該者による、以下の筆者のものの順番と文言をちょっと変えただけの文である。当然筆者より後の文なのであるが、この程度のことに拘りを持つ気はさらさらないが、誤ってパクられるのは心外なので指摘しておく。正しくは
1.混色( 例。青と赤を混ぜて紫を作る)
2.並置(赤と青の色面、色点を並べて紫を感じさせる)
3.透層(下層に赤をぬり上層に青を塗って紫を感じさせる)
「混色」…絵の具どうしを物理的に混ぜる
「透層」…乾燥した下の絵の具の色と色フィルムのように上に乗せる絵の具の色を光学的に混ぜる
「並列」…となり合う違う色を心理的に混ぜるという方法があります。≫
上記は当該者による、以下の筆者のものの順番と文言をちょっと変えただけの文である。当然筆者より後の文なのであるが、この程度のことに拘りを持つ気はさらさらないが、誤ってパクられるのは心外なので指摘しておく。正しくは
1.混色( 例。青と赤を混ぜて紫を作る)
2.並置(赤と青の色面、色点を並べて紫を感じさせる)
3.透層(下層に赤をぬり上層に青を塗って紫を感じさせる)
である 。
先ず、スーラやシニャックなどの点描派にその典型をみるが、印象派や新印象派の新しい造形視点の一つは太陽光線のスペクトルを色彩で表現したことである。つまり、色彩の点や線を規則的に「並列」させるのではなく、適宜に「並置」させ、その網膜に映ずる視覚的効果を「造形的に意図したもの」であり、これは印象派の重要な意義であり、明らかに「並列」ではないし、「心理的効果」という」文言ではその本質は語れない。
≪画面の3分の1のところに水平線を持ってくると「描きやすい」≫
これは、印象派前のオランダ風景画、印象派のブーダン、シスレーなどが、画面の3分の2に大きく空を持ってきて水平線を低く据えるという構図をとった画法について筆者が述べたことを下敷きにしているらしい。この発言も誤りである。水平線を画面の低いところに据えるというのは「描きやすさ」とは関係ない。そうすれば重心の低い、「安定した画面」になるのである。その代り、そういう画法は雲や木などの的確な表現力がなければ大きくとった3分の2が間延びしたバランスの悪い画面になり、そういう意味では相当の表現力がなければごまかしがきかないだけに逆に「描きにくい」画法である。
また、筆者は以下のような発言をしたことがある。
≪風景画において「省略」は時に必要だが、無いものを「描き足す」のは避けたほうがよい≫
≪描きたくなるような対象が突然現れたらどうするか?≫などというのは全く次元の違う話である。
この、「省略」と「無いものの描き足し」は「縮小」と「拡大」とも関係する。例えば、ルーブルにあるような特別な巨大画面や壁画を除き、普通のキャンバスに絵を描く場合は、例え大作であっても、静物や人間は実物より大きく描くべきではない。実物より大きく描くということは、そこに「虚(きょ)」の部分が加わるということであり誠に描きにくいし見栄えも悪いのである。特に写実主義絵画の場合、ものの形を正確に捉えるということはその形に即して見られる「トーン」(調子)も正確に追うということである。実物より大きいというのはそのフォルムやトーンに「想像」乃至は「デッチ上げ」た部分があるということであり、これは通常正確な描写には至らない。これに対し「縮小」は現にあるフォルムやトーンを縮めるということだけなので「虚」の部分を導入することではない。
「省略」と「無いものの描き足し」も同じようなことが言える。風景画においては、構図・構成、色調、フォルムの「バランス」に関係し、相当な慎重さを要する。そもそも、最初の構成が上手くいっていれば、わざわざ何かを描き足さなければならない必然性は発生し得ないのである。
それとバランスに関係し、描き足しは「無いもの」に限らない。特にビギナ―の絵などに見られるが、例えば並木道を通る人物が巨人のように見えたり、逆にミニチュアの人形のよう小さ過ぎたりして誠に不自然さを感じるものがある。聞いてみるとやはり、それを後から描き足したというケースが多い。点景処理を最初の構成から考えていたらこういうことは避けられる。迂闊に描くき足すと、その各種バランスの他、パースペクティヴ、ものの大小関係、ヴァルールがたちどころに狂ってしまう場合がある。
≪ウェット・イン・ウェット≫
ウェット・イン・ウェット(またはウェット・イントゥ・ウェット)とは、文字通り「濡れた画面に濡れた素材で描画を行う」ということである。つまり、油彩では当たり前のことで技法などと呼べるものではない。これは、フレスコもそうだが、一般には水彩のような「速乾素材」について、その画面が乾いていないうちに素早く彩色を施し、滲みやボカシの効果を狙うという、その「タイミング」に係る技法であり、わざわざ油彩に適応される技法ではない。
≪グリザイユ・カマイユ≫
古典主義系絵画は、ルネッサンス辺りから新古典主義辺りまでの数百年、諸々の時代、流派の変遷はあったが、一貫して厳格な写実を基本としていた。その基礎が再三述べた「造形アカデミズム」である。それはモティーフの≪フォルム、トーン、立体感、質感、量感、ヴァルール≫を正確に把握し表現する基礎体系である。因に今日アカデミ―で行われている「石膏デッサン」はその合理的修業法である。
注意すべきは、この造形アカデミズムの中にとりあえず「色彩」は含まないということである。これは、無視したのではなく、分離して、別物として扱ったと言う造形史的事実で語られる。
グリザイユ(灰色系)、カマイユ(褐色系)、ヴェルダイユ(緑系)と言った、モノトーン画法はその「分離画法」である。これは、 このモノトーン画法により安定した構成、正確なフォルムやトーン、立体感等を把握し、それ自体扱いが難渋な色彩は後でそのフォルムに乗せるという合理的画法であり、古典主義ではさらに、パースぺクティヴ、黄金分割、解剖学などの「造形科学」がその土台となったりする。
因みにこの「フォルムの描きお起し」と「着彩」を分離して行うという画法は、、先のテンペラ・ミスタがその起源的画法とも言える。
このように、各種技法は素材や造形性との深い関係の中で、相応の必然性や必要性により生まれた来たものであり、その関係性や効果は今も変わることがない。つまり、その言葉だけが、取って付けたように写真の転写作業などで応用されるはずがないものなのである。
先に述べたように某氏は、筆者のネットコミニュティーでの発言に対してことごとく反対するような挑戦的な言辞を繰り返した。それが正誤、当否につき議論あるものなら良いが、明らかな誤謬、無知、認識不足等に基づくものであり、その後のデタラメの経緯を助長した、真実の足を引っ張る、誠に迷惑千万なものであった。
繰り返すが上記は、筆者が、その責任上かねがね是正をしておかねばならないと思っていたものであり、何もないところから当該者の発言に関与するものではない。いずれにしろ、これらの発言から筆者は当該者に係る先のような認識に至った。上記は、ことさら追い打ちする価値も必要性も感じずそのままにしていたものである。
(つづく)