
Ψ筆者作「翡翠の来る森」F20 油彩
某ネットコミニュティ―で画家Y氏と「黒」の評価について議論した。Y氏主張の柱は以下である。
≪クスミは黒を他の色に無定見に混色して使うことから生まれます。初心者に良く見られる失敗の原因です。そこで初心者には黒を一旦パレットから除外して補色同士の混色などに慣れることを勧めるのです。
黄と緑などの類似色同士の混色は誰でも気軽に行えますが、青と朱のような補色に近い混色はあまり行いません。これを使い慣れることで色彩の使い方の幅が飛躍的に広がり、また黒の使い方にも慎重になるることは、教育者としての経験から言えます。≫
黄と緑などの類似色同士の混色は誰でも気軽に行えますが、青と朱のような補色に近い混色はあまり行いません。これを使い慣れることで色彩の使い方の幅が飛躍的に広がり、また黒の使い方にも慎重になるることは、教育者としての経験から言えます。≫
以下は筆者の意見の要旨である。≪黒という絵具の物理的特性は確かに画面をくすませたり、退色させたりします。しかし黒に限らず油絵具そのものが使い方如何で多くの問題を孕んでいます。しかしそれにもかかわらず長い造形史の中で油絵が今なおその中心的素材となっているのは、そうした欠点をカバーして余りある魅力と可能性にあふれているからです。その妙味、それを生かせる能力こそ画家の真骨頂と言えるでしょう。
黒で問題となるのは黒そのものより、白と中間の灰色を含めた「無彩色」の扱いです。万物はそのフォルムと色彩とトーン(調子)で出来ています。そのトーンを繋ぐのは無彩色です。
例えば絵具の明暗を、プルッシャン→ウルトラマリン→コバルト→セルリアン→バチダーなど暗い順に並べるとトーンらしきものはできますが、繋がり有るものにはなりません。…中略… 黒は画面の深み、味わい、落着き、詩情、情念等表現性の上で欠かせないものです。しかし使い方を誤ると仰るように暗さ、活気の無さ、にごり、画面の硬さを生む両刃の剣です。だからこそ魅力がある!
印象派以降でもそうです。ゴッホ、ヴラマンク、ユトリロ、シャガール、モディリアニ…本邦の佐伯、村山槐多、みんな一流の黒の使い手です。…中略…
印象派は分かりやすく言えば、ヨーロッパ伝統の造形アカデミズムを踏まえた上でその中から新たな視点を提起したというものです。伝統そのものを否定したのはその後のフォーヴ、キューヴ以降です。
例えばその祖、マネに「オランピア」というのがありますが、これはティツィアーノの「ウルビノのヴィーナス」を下敷きにしてます。あるいはゴヤの「裸体のマハ」を想起するでしょう。これに明暗の対比、トーンの省略という大胆さでアンチテーゼしたのです。ブーダン、シスレ―、モネ、ピサロの風景画で画面の3分の2を空に大きくとり、地平線を低く据えたのがありますが、これも17世紀オランダ風景画の画法の踏襲です。
影が青いというのは、従来古典では黒っぽく処理されていた影を、太陽光線のスペクトルに着目した印象派が、その透明なリアリティ―を追求した結果によるもので、色彩の問題というよりその科学的造形思想によるものです。
例を挙げます。青空をバックに逆光気味に黒っぽい木立があるとします。その青空が木の間から覗いている。その青空とバックの青空は同じものです。そこでそのまま描く。そうすると覗いた青空は必ず飛び出して見えます。ヴァルールの狂いです。したがって覗いた青空のトーンを落とす必要があります。これを修正するのが白、黒、灰色などの無彩色です。他の色味では効果的に出来ません。
先の印象派風景画は無彩色によりこのような手続きをちゃんと行っているということです。≫
黒で問題となるのは黒そのものより、白と中間の灰色を含めた「無彩色」の扱いです。万物はそのフォルムと色彩とトーン(調子)で出来ています。そのトーンを繋ぐのは無彩色です。
例えば絵具の明暗を、プルッシャン→ウルトラマリン→コバルト→セルリアン→バチダーなど暗い順に並べるとトーンらしきものはできますが、繋がり有るものにはなりません。…中略… 黒は画面の深み、味わい、落着き、詩情、情念等表現性の上で欠かせないものです。しかし使い方を誤ると仰るように暗さ、活気の無さ、にごり、画面の硬さを生む両刃の剣です。だからこそ魅力がある!
印象派以降でもそうです。ゴッホ、ヴラマンク、ユトリロ、シャガール、モディリアニ…本邦の佐伯、村山槐多、みんな一流の黒の使い手です。…中略…
印象派は分かりやすく言えば、ヨーロッパ伝統の造形アカデミズムを踏まえた上でその中から新たな視点を提起したというものです。伝統そのものを否定したのはその後のフォーヴ、キューヴ以降です。
例えばその祖、マネに「オランピア」というのがありますが、これはティツィアーノの「ウルビノのヴィーナス」を下敷きにしてます。あるいはゴヤの「裸体のマハ」を想起するでしょう。これに明暗の対比、トーンの省略という大胆さでアンチテーゼしたのです。ブーダン、シスレ―、モネ、ピサロの風景画で画面の3分の2を空に大きくとり、地平線を低く据えたのがありますが、これも17世紀オランダ風景画の画法の踏襲です。
影が青いというのは、従来古典では黒っぽく処理されていた影を、太陽光線のスペクトルに着目した印象派が、その透明なリアリティ―を追求した結果によるもので、色彩の問題というよりその科学的造形思想によるものです。
例を挙げます。青空をバックに逆光気味に黒っぽい木立があるとします。その青空が木の間から覗いている。その青空とバックの青空は同じものです。そこでそのまま描く。そうすると覗いた青空は必ず飛び出して見えます。ヴァルールの狂いです。したがって覗いた青空のトーンを落とす必要があります。これを修正するのが白、黒、灰色などの無彩色です。他の色味では効果的に出来ません。
先の印象派風景画は無彩色によりこのような手続きをちゃんと行っているということです。≫
つまり「黒」に限らず白、灰色などの無彩色の扱いがテーマとなった。