Ψ筆者作「森の取水小屋」F30 油彩
 
  油絵具の白には何種類かあるが、鉛白(シルバー)、亜鉛華(ジンク)に続き、チタン白は最も新しい、かつ欠点の少ない白である。アナターズ型のチタン白がヨーロッパで出始めたのが1926年頃、ルチル型が市販され始めたのは第二次大戦後である。このアナターズ型を佐伯祐三が使ったという可能性はある。しかしルチル型を使うということは絶対にない。贋作を作る者はこの辺の知識もなければならず、何事も楽ではない。
 ところが「佐伯作品」でこのルチル型が検出された。これは先に述べた裁判での鑑定の話である。答えは明らかであろう。
 さて、筆者がこの白で最も気にするのが「黄ばみ」と「粉っぽさ」である。以前から新しい絵具を買ったら「色見本」を作る習慣がある。白も数メーカ―を作った。
 国産Aメーカー、 外国品B、C、Dの4メーカーであるが、Aの短期間での黄ばみはひどかった。雪景色などこれでどうするのだろう?と思った。B,Cも多少良かったが、時間を経るに従いやはり黄ばみはでる。黄ばみと言っても、全体ではなく表面の黄変であり、カッタ―で表面をそぎ取ると中は白い。これは顔料自体と言うより媒材の対酸化重合の度合かもしれない。
 ともかく黄変は困る。その点Dのはいつまでも白い。それを機会にDの絵の具使用するようになった。ただDのはややサラッとしている。ベタ塗りするとアクリルのように軽い。しかし、コッテリと盛り上げない、厳格なフォルムとトーンで作る古典派的画法には適しているだろう。因みにDメーカーはアナターズ型とルチル型の両方のチタンを販売しているが、アナタ-ズの粉っぽさとやや黄色するところは認めている。
 Cメーカーの絵具は、おそらく日本では最も高価であろう。この絵具は樹脂入りである。昔のヨーロッパの油絵具は樹脂入りが常識だったが、今樹脂で練っているのはこのメーカーだけらしい。普通6号チューヴの絵の具は20MLであるが、ここのは15ML単位であり、そのセルリアン・ブルーなど一本8000円近くする。
 さて、上掲の作品はそのCメーカ―の絵具で描いたものである。そういうことなのでその絵具を大事に使い過ぎ、樹脂の影響もあり、一部絵具に固化が見られ、慌てて使い切ろうと思って描いた。流石に油絵らしい重厚なマティエールを作る。
 ところで油絵、とりわけ風景画には以下の三要件がある。 
 ○絵となる生きたモティーフが存在すること
 ○画家側にそのモティーフに通いあう美意識と作品にしたいというモティベーションが存在すること
 〇画家側に絵にできる造形能力があること
 例えば実際の風景がいくら客観的には美しくても、画家にそれを美しいと感じる美意識がなけれならばいし、それらがあっても絵にできる技術がなければならない。そしてその美意識や技術を総称してを「造形感覚」といい、これらは生来のものであるが、努力によって練磨される部分もある。
 例えば佐伯祐三は日本に絵になるモティーフはない、といって結果的に客死することになる二度目の渡仏を決行するし、そのパリでも多くの画家が描くような名だたる名勝地には目もくれず、名もない街角、店先、看板文字、扉などを描いたが、先の三要素のどれをとっても佐伯芸術は完成されない。また、佐伯もコローもユトリロもその個々の色彩は決して綺麗なものではない。むしろ混濁しているが、作品となった時詩情あふれる美しい色彩となる。佐伯は独自の手製キャンバスを作り、フジタは独自の地塗りを施し、ユトリロは硬質のパリのマティエールの効果のため壁材を混入させたりした。これらは彼ら固有の造形感覚の為せる技だが、どんな造形感覚にも応じられる唯一の素材が油彩であり、それ故西洋美術史800年の主役となった。
 今あらためて油絵具に感じるのは、そうしたことを含め、作品固有の重厚さ、物質的価値、オリジナル性等への寄与である。芸術とは本来そういう手造りの温かみあるものである。
 今、頭のてっぺんから足のつま先まで、あるいは衣食住、冠婚葬祭に至るまで「アート」を名乗るものは多い。本来のアート自身も、話題性を追い、ポピュリズム(卑俗化)、メディア化(複写・複次元化))に迎合、テクノロジーや商業主義に組み込まれ、どぎつい原色、軽薄素材、視覚のオドロキ、便利主義、享楽趣味等の氾濫の中にある。しかし、いつの時代も、こうした時代性との戦いは芸術の宿命である。それらの多くが時代とともに消え去っていった反面、絵画芸術は、ショパンやバッハの名曲のように、連綿とその格調を保ちながら生き続けている。 究極の価値は個々の人間、個々の作品に帰す。