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何度も言ったことだが、絵画に限らずどんな世界でも、それが遊び半分のいい加減なものでない限り、一つの価値に到達するには基礎的な知識、技術の習得に係る真摯な修練と、その維持、向上に係る反復、継続した切磋琢磨が必要である。
一方、絵画が他と決定的に違うのは、その価値に「免許皆伝」はなく、それに至る方途も一つでないということである。またマニュアルも資格試験もない。その意味でこれほど自由な「メティエ」はない。しかし言い換えれば、全く自由ということほど難しいものはない。その一見つかみどころのない自由の中で、太古の昔から、世界の隅々で、人間社会で大きな価値として連綿と続いている「絵画芸術」という表現メディアとしての価値、即ち「絵画的価値」を求めなければならない。
こう言うといかにも難渋で大仰に聞こえるが、実はこの価値とはすぐ傍に転がっているのだ。それは大金をはたいて世界遺産級のヨーロッパの風景を描かなくても、りんご一つにも、路傍の一輪の花にも潜んでいる。生まれて初めてクレヨンを握った子供にも可能である。精神を病んでても、諸々の障害を負ってっても可能であるばかりか、それを価値に展化することさえできる。グランマ・モーゼスは70歳半ばで本格的に絵を描き始めた。80歳で初個展、100歳過ぎで死ぬまだ描き続けた。アカデミックな造形修行の経験はないが、ナイーフ系の一級品の作品を残した。リタイア後のアンリ・ルソ―然り。そしてひとたび絵画芸術に連なった価値は時代は変わろうと、その傾向流派に関係なく生き続ける。流行りものは時代とともに消え去る。絵画、とりわけ洋画の世界は、かくも間口広く、懐深く、自由に満ちているのである。
問題は、そういう可能性が如何に左様に身近であっても、創造の主体たるべき人格が一定の要件を満たさない限りその距離は数万光年の彼方の星のように遠いということである。その要件とは、そのメティエに対する謙虚な姿勢、美や価値を希求しようとする心、純粋に自己を表現したいという欲求、自己実現、自己開発の意思、向上心等、そういう意味の知性であり、資質、才能、色彩や造形感覚、感受性など直接絵画的価値につながるものはそこから先の話である。
その絵画的価値はいくつもあると述べた。事実、印象派は古典主義に、「20世紀新具象」は印象派に、抽象やポップは新具象に、コンテンポラリーは抽象等に、それぞれアンチ・テーゼとして新しい造形、新しい絵画的価値を提示してきた。そしてそれはこれからも無限の可能性に満ちている。どんなものが出てくるかわからない。そういう意味で自由なのである。ただ確実に言えることは、そういう自由や可能性は絵画である以上絵画的価値の外に存在しない。ものは言いようでどうにでもなる価値などない。「イワシの頭も信心」は通用しない。「あさって」の方向で履き違えた自由を主張しても「あさって」を抱えたままあの世にいくだけである。
勿論趣味としての絵画もある。しかし、趣味だからと言って絵画的価値は希求しないということはない。当たり前の現実として、多くの人が上手くなりたいと思い、教室に通ったり、公募展に応募したりしている。自分勝手な理屈が通用するとは思っていない。楽しければ良いと言っても描きたいものを描きたいように描けなければ楽しいはずがない。他人に評価されるということは他人と美意識や価値観を共有するということであり、それは大いなる喜びであろうが、それも絵画的価値に立脚したもの乃至はそれを希求するという姿勢を背景としたものでなければ話は始まらない。
ところで、その趣味に関し最近感じることがある。ジャンルは違うが、自分が弾きたい曲のプログラムをコンピューター入力すれば鍵盤が光ったり、番号を表示して、その通りに従えば一曲演奏できるというものである。それを「趣味は音楽演奏」と主張するのは勝手だが、音楽の専門家は言うに及ばず、本当に趣味として音楽をやっている人から見て、それを「音楽の趣味」と認めるだろうか?あるいは、コンピューターでクラシックの名曲を合成演奏する試みがあるそうだが、本当のクラッシック愛好家は「邪道」の一言で片づけるだろう。
そもそも絵画に限らず、昨今の美術、文学、映画・演劇等エンターテイメントは、マスメディアやテクノロジーの高度化を背景に、好ましからざる「メデイア化」、「文化的ポピュリズム」(大衆迎合)が見られる。これに芸術の方が近づくのは芸術の「自殺行為」と言える愚態なのだが、その流れは絵画の世界も例外ではない。ポピュリズムとは流行や評判を前提とする。それで捉えられる人間とは集団的、社会的人間であり、それに「本来」個人」の感情や美意識に直接語りかける力はない。本来という意味は、その感情や美意識そのものがメディア化されポピュリズムで出来ている場合を除くという意味である。まさにこのヴァーチャルさが、本邦の属地的、時代的悲劇なのであるが。
メディア化の結果の一つにより、マティエールや素材、タッチ等作品固有の温かみ、味わい、希少性、物理的価値は無視される。だから油彩である必要はない。軽薄素材でも複写効果があればよい。
例えば昨今のお絵かきソフトや写真の転写技術等の手練手管が、各種テクノロジーやアニメやマンガの「メディア文化」、商業主義を背景に新しい趣味道として体系化されているようだが、これらは、絵画芸術の精髄、造形史800余年の側からみれば、先の「コンピュータ―鍵盤」と五十歩、百歩であろう。老人のボケ防止のために「大人のぬりえ」というのがあるが、そういうリハビリ効果はあるだろうが。
こういう状況はネット社会にもある。元々ネット社会は、匿名性が担保され、ヴァーチャルであり、趣味的捌け口、受け皿的要素がある。だからどんなデタラメでも場当たり的な言いっ放しでも、知ったかぶりでも、言えないことはないが、本質をシッカリ見据え取り組んでいるものと、そうでない趣味的スローガンは一目瞭然である。本質に挑戦的なものは必ず居場所を失う、行き場を見失う、価値の欠片も無いなど、その因果はシビアに出るものである。。
一方でネット社会は今や、国際政治、軍事、国内の政治、経済、社会、文化、諸々を動かす力がある。先のアラブ社会の変革、中国の市民的動向、アメリカではウィキリークスによる国家機密スッパ抜き、本邦の中国漁船の衝突映像、反原発デモへの呼びかけ、総てネットによるものである。言い換えれば、本邦の政・官・業・マスコミの四権エスタブリッシュメント、その他諸々のシステムのなれあい、御都合主義、総保守翼賛体制、利権構造による弊害、とりわけ今回の原発報道ではメディアの及び腰、情報操作、隠ぺいが明らかになったが、既成の諸システムがいつまでもこのような状況であるなら、信じるものはネット社会の情報とその「直接民主主義」的機能しかなくなるだろう。現に先に述べたような事実がそれを示しているのである。今回出版に関わって、従来の取次制度に加えての、昨今のネット上の書籍販売に係る流通システムの整備には括目した。こういう状況ある中ネット上の芸術文化に係るカテゴリーも、先の文化ポピュリズムの受け皿ではなく主体性ある文化としての内容と意義をもつべきであり、そのための害悪は排除していかなければならない。