
Ψ筆者作「「青い花咲く森」F30 油彩
この「日本美術史逍遥」という書庫は、近年本邦洋画界のことをランダムに書いているわけであるが、筆者は制作実務がライフワークであるし、美術史学上の本来の専攻も西洋美術史である。しかし、あらためて明治期から今日に至るまでのその流れを追うと、今まで見えてなかったものが俄然見えてきたり、良きにつけ(あまりないが)悪しきにつけ、現在の状況と因果するものを発見したり、「ついこの間のこと」との時間の短さを感じたり、伝えられていることは表面的なことで、実は一筋縄ではいかない裏があったり、次から次に興味あることを知見でき、その意味では新鮮であった。
反面、一昔前上野、銀座あたりでいかにも「大家」、「画壇のボス」然としたお歴々を目にしたが、その多くが、国家褒賞を頂点とする文化ヒエラルキー、「松田改組」、「彩管報国」等に迎合した「前科」の上に、何食わぬ顔して画壇とか市場とか呼ばれるものの、世界に例を見ない今日的因習の土台を築いてきたかと思う一方、セザンヌ、ゴッホ、ユトリロ、モディリアニ等が純粋な自我のため、自由な創造のため、一人一人がで苦闘して築いた結果が西洋近代絵画史であると思い、その質の違いに大きな落差を感じるのである。
しかしそういう本邦特有の土壌はあるにしても、画家の個人レベルの人生の軌跡や人や事象相互の「交錯」は面白い。特に後者について、当時は未だ諸々の世界が狭かったということを思い知らされる。例えば佐伯祐三と中村彝の二人は大正期を代表する画家である。この二人には共通点がある。先ず二人とも下落合にアトリエがあったということ。距離は直線で500メートルぐらいの距離である。当時の下落合が「画家村」的要素があったのでこれは納得がいく。
佐伯が川端画学校、美校で師事したのが「巨匠」藤島武二である。佐伯のデビューとなった二科展への出品に道を開いたのも藤島であるが、藤島自身は帝展のトップであった。中村彝が「エロシェンコ」を出品したのは帝展だが、それ以前の文展から出品しており、その関係で中村彝の葬儀に藤島は出席している。
また、佐伯は近所の曾宮一念とは懇意だった。佐伯第二次渡仏の際は、曾宮に飼っていた鶏とイーゼルを贈っている。その曾宮は同じく近くの鶴田吾郎と懇意だった。鶴田は中村屋サロンで中村彝を知る。盲目のロシア人エロシェンコを目白駅で見つけモデルを頼んだのは鶴田である。鶴田は彝とエロシェンコを競作し伴に帝展に入選する。そういうことから曾宮も彝と懇意だった。即ち曾宮は、佐伯、彝の共通の友人ということになる。 その曾宮は自らも結核であり、中村彝の主治医であった名医遠藤繁清を知る。遠藤渡仏の際佐伯を診てもらうことを希望するがこれは実現しなかった。
後年、今は無き登竜門「安井賞」 を主催する「安井曽太郎記念会」の理事長であった荏原製作所の酒井億尋は、当初画家志望だった。中村屋サロンに出入りし彝を知る。彝は今村銀行の今村繁三、成蹊学園の中村春ニなど後援者に恵まれるが、酒井もその一人だった。この酒井の名は、当時の下落合の住宅地図に、ある土地の地主として載っているいる。その土地こそ佐伯アトリエの建っているところなのである。
画家鈴木誠は佐伯第二次渡仏の際、佐伯アトリエの留守番をする。鈴木は後年中村彝のアトリエを使用するに至る。即ち鈴木は佐伯と彝という「二大スター」のアトリエを使用した唯一の画家ということになる。
前田寛治は佐伯に、中村彝著作の「芸術の無限感」を紹介したり、「エロシェンコ」の写真を見せるたりした。佐伯は「この線が気に食わん」と冷たく言い放ったが、中村彝のことは意識していたといわれる。
ところが、これだけ「ニアミス」があっても、佐伯と彝には直接の接点はない。彝は早世、佐伯も渡仏と、時間が短かったからである。
この逆、即ち直接の接点は有り余るほどあるのに、中身が伝えられるほどではないと思われるのが、佐伯らのちょっと前の話になるが青木繁と坂本繁二郎の関係である。坂本については以下にまとめてある。
一方坂本は、青木の代表作「海の幸」について、実は青木は布良の海であの光景を見てはいないと言っている。その凄惨で血なまぐさい漁の光景を実際に見たのは自分であり、青木は自分がしたその話を絵にしただけだと言う。
久留米に帰省していた坂本は、兵役検査で帰ってきた青木と偶然町で逢う。その時一席は設けるが、「じゃぁな」という風情で簡単に別れる。中央画壇から離れ生活も苦しかった青木を在京の坂本が何か助けたという記録は見られない。青木は久留米から東京へ文展出品作(落選)を送るがそれは坂本へ委託されたものではない。 坂本の結婚式に青木は呼ばれない。梅野満雄という青木、坂本共通の友人がいた。彼は青木作品を私費で買い集めたり、坂本にアトリエを提供したりするが、ケシケシ山の「青木記念碑除幕式」に坂本からは招待されない。坂本には何か都合が悪かったのかもしれない。あるいは梅野の二人の評価を不快に思ったのかも知れない。作家松本清張は坂本の「青木コンプレックス」を指摘している。
彼らに限らずエピソードはまだまだ沢山ある。