Ψ筆者作 「五行川の別れ」 F6 油彩(画像削除)
 1907年春まだ浅き栃木県水橋村。五行川の橋の上で青木繁はたね母子と別れる。「わだつみのいろこの宮」を勧業博覧会に出品するための上京である。上京中青木は父危篤の報を受け久留米へ帰郷、その後中央画壇への復帰かなわず、九州を放浪し福岡で死去。この五行川の別れが永久の別れとなった。
 抱かれた赤ん坊は幸彦、後年の福田蘭童、「ヒャラリヒャラリコ…」の「笛吹童子」の作曲家である。
 彼も家族と言えるものとは疎遠だった。青木とは「事実婚」だったので、たねのその後の別人との結婚は「再婚」と言える。蘭童はたねのもとを去る。蘭童の前妻の子、英市(クレージーキャッツの石橋エータロー)も長く蘭童の顔を知らないで育った。英市が結核で病床にある時、メガネをかけた老婆が見舞いに訪れる。「総ては自分のせい」と泣いてわびる。祖母たる福田たねであった。
 水橋村は福田たねの実家あるところである。青木はそこで「わだつみ…」を描いた。出品したが三等末席という不本位な結果に終わった。この勧業博覧会の審査はひどいものだったようである。白馬会と太平洋画会の勢力争い、情実選考、今日の何とか展のそれはその「伝統」そのものだろう。違っているのは当時の画家にはまだ芸術家としての気骨があったということだ。
≪「東京府勧業博覧会美術部西洋画審査」の公平を失せる事は、吾等の時々耳にする所なりき、芸術観賞の標準は各審査官において必ずしも一致すべきに非ず、従って毎々各個人の満足を得るべきものにあらざるや論なしといえども、7月6日其公表になりて我等は余りに多き裡面の情実のために、全く審査の意義を没却したるを確かめたり,斯くの如きは実に芸術の精聖を汚し,今後に厭ふべき悪例を残すと認ム、故に我等は此の無意味なる褒賞を当局に返却し,併せて東京府勧業博覧会美術部西洋画審査の非公正なる事を公表す
 太平洋画会会員  (署名は中村不折、小杉未醒、坂本繁二郎など17名)≫
 褒賞返還、審査員辞任などの騒ぎとなった。青木も「方寸」誌に投稿、ボロクソにこれを批判する。しかしこれは青木にとって逆効果だった。
 青木はその後文展にも出品するが落選が続く。青木は自尊心が強い。その分逆境に弱い。たねとの離別も生活苦からの逃亡と評価されている。家族や周辺とも軋轢は多かった。青木の人間性は批判されることが多い。
坂本繁二郎がそんな青木を助けた様子はない。本当は伝えられるほど親密な間柄ではない。
 坂本は能面を描いて「幽玄の巨匠」として本邦美術界の頂点を極める。しかし最初に能面を描いたのは青木の方だった。そのスケッチ帳を坂本は長い間秘匿していた。
 青木はついてない男だった。青木を「天才」というが、結果に現れたもので筆者が評価するのは「海の幸」一点のみである。神話に頼ったのも青木の可能性に逆効果だった。「海の幸」は乾坤一擲と言える。その意味で青木は天才は天才でも「開かざる天才」だった。これに対し坂本は「満開した鈍才」だろう。
 「…小生は彼の山のさみしき頂きより思い出多き筑紫平野を眺めて、この世の怨恨と憤懣と呪詛と捨てて静かに永遠の平安なる眠りに就く可く候」…青木無念の辞世である。
 ヨーロッパの地も踏むことなく1911年死去。「海のさち」と「わだつみ…」は後年重文指定されるが、死せる青木にとっては何の価値もない。