
Ψ筆者作 「水藻の川」 F10 油彩
上記表題の言葉は「武士道とは死ぬことと見つけたり」のパクリであるが、正直そういう結論を得ている。そう思い切れば別れを恐れず生きられるような気がする。
近代本邦洋画の画家達の本を何冊か読んだ。先に挙げた「夭折の画家達」は早々と人生におさらばした。興味持たされたのは、早世、長命を問わず、彼らの別れの前の煌めくような瞬間である。
佐伯一家は一か月半の長い船旅を経て1924年冬、憧れのパリを地を踏んだ。鈍色の空の下希望に燃えたパリの生活が始まった。数年後佐伯米子はたった一人で一家がたどった思い出の海路を帰る。佐伯祐三、享年30歳。
青木繁は、白馬会受賞後の絶頂期、坂本繁二郎、森田恒友そして福田たねと南房総布良に遊ぶ。煌めく太陽の下、自信に満ちて青春を謳歌し、かの「海の幸」を生む。しかし、たねをモデルにした「女の顔」が白馬会の事前審査ではねられるという屈辱を味わう。捲土重来を期した「わだつみのいろこのみや」を抱え上京するため、福田たねと幸彦(後年の福田蘭童)親子と水橋村、五行川の橋の上で別れる。それが永遠の別れになるとも知らず。「わだつみ…」も思わしい結果ではなかった。急速に凋落する。中央画壇への復帰なく放浪。青木繁、享年29歳。
高村光太郎は上高地で仲間と絵を描く為滞在していた。長沼智恵子はそこを訪れる。光太郎は徳本峠を越え岩魚止め小屋まで智恵子を迎えに行く。昔は岩魚止め小屋経由がルートだった。長い、楽ではない道中だ。智恵子はこの頃は心身共に元気だった。その後二人は結婚する。長い山道も幸福の陽光に包まれた楽しい時間だったろう。元気な智恵子とは生きながら別れることになる。長生きした光太郎だけが戦争に巻き込まれる。
中村彝は相馬の娘俊子を描く。若い溌剌とした肢体に憑かれ、その美へのオマージュはモデルと現実の境を超える。相馬夫妻に結婚を申し出るが、相馬も人の子、彝の病身、生活力を案じこれを拒絶する。彝は一たび逆上するが、大島へ傷心の旅に出る。大島ではハンセン病患者の一団を見る。後に盲目のエロシェンコに出合う。人間の存在、命は自らにも切実な問題だった。命とも競争しながら絵を描く。時に血を吐きながらチェンニーニの技法書を翻訳する。帝展(エロシェンコ)は見にすらいけない。クリスマスの日37年の生涯を閉じる。
荻原守衛(碌山)の「女」を見て、相馬の子供が「あ、母さんだ!」と叫ぶ。実際は別のモデルがいた。碌山の「女」は相馬黒光へのオマージューである。これも血を吐き31年の生涯を終える。黒光は碌山の日記を人の目の前で火にくべる。
彼らの創造はそうして生まれた。
追記
先に中村不折のところで不同舎、太平洋画会研究所に触れたが、上記中の福田たねは画家志望で上京、不同舎に学ぶ。青木繁とはそこで知り合う。一方長沼智恵子も画家を志し、太平洋画会研究所に籍を置いた。なお、不折、光太郎、彝、碌山の共通点は相馬夫妻の中村屋サロンに関係していたということである。当時の同サロンの文化的意義がわかる。しかし、碌山の死を聞いた光太郎は「黒光に脳梅をうつされたからだ!」と激怒したという話もあるが、何か黒光の特別な存在感を物語っているようでもある。