\¤\᡼\¸ 1Ψ中村不折 「男の裸体」 油彩 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
≪…では何故軍部は絵画をかくも「重用」したのであろうか?興味深いことにこれは「盟邦」ナチスドイツも同じなのである。ヒットラ―自身画家志望であったし絵画をこよなく愛好した。側近ゲーリングは絵画蒐集家であったし、ヒムラー、ヘスなど他の側近も同様である。また「大ドイツ芸術展」など「民族の伝統と美とロマン」を謳い上げる展覧会を開いたし、一部芸術に「堕落芸術」の烙印を押したのも国策としてのその評価と表裏をなすものである。
 勿論日本にしろドイツにしろ、当時は写真もあったので、情報宣伝という意味なら写真でもよかったはずである。しかし写真が伝えるものは事象の「事実」に過ぎない。その「事実」を伝えるだけでは不十分だったのである。 画家が感じ、解釈し、かつ訴える力のある、彼らに都合の良い戦争の「真実」でなければならない。感情、思想の投影、色彩、筆致、マティエール、絵画にはその意味で写真を超える力があった。日独の権力者たちはそのことを「本能的」に察知していたように思われる。本邦の武骨な軍人たちもそのことだけは理解していた。
 因みに、未だにこの写真と、絵画の写実主義リアリズムの識別がつかない論調が一部にある。先ず写実主義とは広義のリアリズムの一形式である。そして写実主義絵画とは写実主義により上記のような絵画的意義を満たすことを希求する芸術様式である。写真の出現により写実主義、描写主義の意義は薄れたというなら写真が登場した瞬間に美術史上の写実主義リアリズム、古典主義絵画の価値も喪失しなければならない。優れたものは当然写真を超える。こうした軍人でも理解しているような、写真と写実主義絵画を、ド素人の門外漢ならいざ知らず、いやしくも絵描きを名乗る者が区別できないというのは、写真に迫ることに汲々としている限りの「ハイパーリアリズム」の存在とともに嘆かわしい。…≫
 武骨な軍人でも判っていたこととは、写真とは「事実を伝える」もので「本質を伝える」には絵画の力を借りなければならないということである。これが絵画、とりわけリアリズムとか写実主義とか言われるものの意義である。  これは、先のクールベの「りんごとザクロ」で言ったことに他ならず、風景画でも人物画でも言える。冒頭の石膏デッサンの話も実はそうなのであった。純造形的な意味でリアリズム絵画の本質とは、それが≪カラ―写真を貼り付けた程度の「事実情報」の転写ではなく、見ること、感じること、その自我を介し、造形の精髄から骨組み、肉付けされたものでなければならない≫ということである。
 造形アカデミズムに「量感」という言葉がある。これは「立体感」とは違う。例えば雲は立体感はあるが重さはない。量感とはその重さ、ヴォリューム、塊、密度の概念である。マネキン人形は中は空洞だが、人体は空洞ではない。五臓六腑が詰まっている。これを描き分けなければならない。皮膚の下のは緑色に見える赤い血が流れている。それを描かねばならない。ヨーロッパ古典主義絵画はそこまで描いているのである。これはとても写真が伝える外部からの「事実情報」程度では応じられない。
 件の中村不折の作品はそうした造形修行から生まれたものである。先のクールベのリンゴ同様、写真の「事実情報」を超える重さがある。場合により、厳格なアカデミズと雖も必要な効果的誇張は許される。例えばクールベのは実物よりゴツゴツした感じだが、この不折の手や足も実際より大きい。この末端部を大きくするというのは、ドッシリした安定感やある種の緊張感を与える。別の世界でもディズニ―アニメのキャラクタ―などにもみられるが、この手法は和田三造の「南風」、中村彝の「俊子像」その他多く見られる。当時のアカデミズムの造形教育にそういう手法が体系化されいたと思われる。
 いずれにしろ他の作品もそうだが、不折のような作品は今日ほとんどお目にかからない、骨太で絵画芸術として真のリアリズムに適う。これに対し、「ニセリアリズム」はどうか?これも既出文からの引用である。
≪例えば上っ面の表象ばかりを追う、先のカラー写真を貼り付けたような「表象リアリズム」は、それが完全であればあるほど画家個人を離れ表象そのものに近づいていく。つまりそれが10あるとすれば10の、写真を貼り付けたような同じものが出来てしまうのである。しかし、真のリアリズムはそうではない。いつもの例で言えば、ラファエロ、ダビンチ、プッサン、デューラー、レンブラント、アングル、ブーグローの7人が全く同じモテイーフを同じ条件で描いても、どれが誰の作品か一目で判るだろう。つまり、総てがそれぞれ完成したリアリズムを呈しながら、「個」が失われ表象だけが残るということはないのである。それは個々の画家が個々の目で見、解釈し、独自の造形性をもってモティーフに対峙した、その「個」の違いによる。…中略…マティエールを殺し、カラー写真を貼り付けたような絵に近づけば近づくほど「個」を失っていくということに気づいているのだろうか?…中略… そういうものの行き着く先きは目に見えている。テクノロジーとの高からぬ次元の戦いである。昨今、テクノロジー側からの「リアリズム開発」例は枚挙に暇ない。映像の世界ではコンピューター・グラフィックス(C G)、3Dなど「ビックリもの」が席巻し、二次元造形世界においてもデジタル・アート、描画ソフトは隆盛を極め、それどころかHDR機能と呼ばれる、デジカメ写真を絵画的タッチに変えるものまで現れている。…中略… ともかくもその複写やレタッチに係る機能は「高度」である。そのうち実際に絵具を使っての「コンピューター制御」による「色づけ」、「トーン付け」もできるようになるかもしれない。…中略…そういう時、「表象リアリズム」が「自らの手による」こと以外にはそれらに対峙することが出来ないとすれば、それは他に余り有る絵画芸術としての意義に比し余りに脆弱であろう。≫
 昨今、「リアリズム専門美術館」が出来、「凄腕」を特集する雑誌もでた。それらは、確かに、造形修行の経験のない、そういう素人の視覚を驚かせるだけのものはあるだろう。どこか思わせぶりな表情、「絵づくり」や小道具の工夫、いかにも「写実」における究極の表現方法のような印象を与える。しかし、ヨーロッパ古典絵画のような、対象と一歩も引かず向き合い、その本質をじっくり掘り下げるという骨太の造形性は全く感じない。「視覚の驚き」という素人受け狙いしか感じない。次に起こるのは「だからなんだっていうの?」という感情で数時間経てば作家名も忘れてしまう。
 筆者も描写主義やリアリズムをベースにしてるのでそれそのものは否定しない。しかし、実作者として、一美術史学徒として、何より絵画芸術の名において、縷々述べた趣旨により、リアリズム価値の本質はそのようなところにはないということだけは言っておかなければならない。ましてや、某団体展系に見られるように、流行りものなのか、その立場を維持するのに必要なのか、みんな「ボス似」の同じようなものを描いているのは、創造者としての「良心」に鑑み大いに疑問である。