当ブログ「この世の光6」で高村光太郎について触れたが、本日(26日放映)の「美の巨人たち」はタイムリーにもその光太郎であった。その内容だが、当ブログでも取り上げた「緑色の太陽」や智恵子絡みで平塚雷鳥、「青鞜」などの文言が出てきたのは我が意に適うものであったが、ポイントが智恵子と思慕の投影としての彫刻「乙女像」(十和田湖)に絞られ過ぎれ、光太郎の精神の変遷を追うという視点に欠けていたように思った。行きがかり上この辺に一言を要すると思い当稿に及んだ次第。
 時系列に従い整理する。若き日の光太郎は、先に述べた二編の詩、「パリ」と「根付の国」にその心情の表れた如く、父光雲はじめ、この国の因習、国民性総てに反抗し、当時流行っていた「デカダン」、「アナーキー」を地で行くようなところがあり、その象徴が1910年の「緑色の太陽」において芸術の自由宣言である。光太郎27歳の時である。
 智恵子と結婚するのが1914年、智恵子との出会いにより光太郎のそういうラジカルな精神は穏やかなヒューマニズムへと向かう。先ずこの辺に関し智恵子の存在意義は忘れてなるまい。光太郎は心身ともに脆弱な智恵子に献身し純愛を注ぐ。しかし智恵子は統合失調症に至る。自殺未遂もあり、1938年死去。その3年後「智恵子抄」が出版される。まさにこの年、1941年12月は「真珠湾攻撃」の年であった。 繰り返すが「智恵子抄」は智恵子という人間、一個人を只管思慕し、哀惜する純粋な精神の記録である。その翌年1942年、「文学報国会」が当局の肝いりで結成され、光太郎はその「詩部会」の会長となる。言うまでもなく光太郎は詩人である前に彫刻家であった。その彫刻(美術)ではなく、「智恵子抄」の作家、詩人として戦争に協力したのである。
 番組では、光太郎の戦争参加に関する反省の弁を一言触れただけで、「報国会」の経緯には一切触れていない。「乙女の像」も、それに連なる「智恵子抄」もその事実とどう繋がるのか?それは繋がらない!生き残った自我と死せる最愛の人、人間と時代、私と公、芸術と国家…そのジレンマの谷間におかれ、総てが繋がらないことに光太郎の苦悩があった。苦悩があったがこそ、山奥への隠遁、7年にわたる彫刻のブランクあった。その辺のところにメスを入れなければ高村光太郎の真実は半分も語れないだろう。芸術家の創造と思想、これは一筋縄ではいかない。紆余曲折は誰にもある、そうした総てから時代や芸術家やその作品を考えなければならない。ドラマティックな部分だけ「つまみ食い」しても底の浅いものでしかない。佐伯の「このアカデミズム!」もそうであるように。
 
 この一曲
 佐伯祐三は自らヴァイオリンを習うなど音楽にも興味がった。多くの作品とともに愛用のヴァイオリンが遺された。デュフィだったかマチスだったかヴァイオリンの絵があるが、佐伯は描く気はおきなかったのだろうか?ともかく彼の愛好した曲で私も好きな曲がある。これだ!
 
これも入れずばなんまい
 智恵子の故郷の空、今放射能で「灰色」である