Ψ筆者作上 「昔日の陽射し3」 F6  油彩      下 「川沿いの道)」   F4  油彩 ( 画像削除)
 オーヴェール・シュル・オワーズ。ここを訪れたのは夏の終わりだった。駅を降りたのは確か自分一人。人気なく、ただ静かで明るい陽射しに街全体が眠っているようで、とても美術史上の大きな舞台となったところとは思えなかった。そう、ここはゴッホが自殺した場所。セザンヌが描いた「首吊りの家」も、「カラス舞う麦畑」も、ヴァンサンとテオが仲良くと並んで眠る墓もある。 ゴッホが、佐伯が、描いた教会もある。そして佐伯が「このアカデミズム!」とヴラマンクに怒鳴られた舞台でもある。1924年夏、里見勝蔵に伴われて佐伯一家はこの駅に降り立った。足の悪い米子と幼い彌智子をホテルに留まらせ、佐伯と里見はヴラマンクの家へ向かった。
 遥か時間が経って、かつてゴッホがセザンヌがヴラマンクが佐伯や里見が、そして「オーヴェール詣」で世界中から訪れた数多の画家たちが歩いたであろう道を歩いた。
…2点とも実際の風景や状況とは少々異なるイメージ 1イメージ画
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 フジタが線描に使った面相筆と厳格なトーンをつけない平明な表現は日本画に共通する。しかし、面相筆とは極細筆であり、油彩以前の古典画法では「ハッチング」をその極細筆を以て行う。またフジタ程度の平明なトーンならイコンの例を挙げるまでもなく西洋画ではいくらでも見られる。下地材づくりは油彩キャンバス以前の板絵古典画法のそれそのものである。即ちフジタの造形性を単純に東洋、日本のものと見るのは西洋造形史に疎い者の見方である。
 現在、テンペラ、フレスコ、及びテンペラと油彩の混合画法はペダンティックな造形方面では常識的ですらあるが、油彩全盛の20世紀前半の、当時は「過去のもの」と思われていた技法を密かに復活させ、欧州人の眠っていた美意識を擽って成功を収めたフジタは、誠にしたたかであったと言えよう。
 修復研究機関等により明らかになったフジタの画面分析は以下のようなものである。
 下地材には石膏と鉛白(シルバーホワイト)が使われている。この石膏は普通は硫酸カルシウムが主成分であるものを指すが、フジタのは硫酸バリウムが検出され、この硫酸バリウムは硫化亜鉛と合成され「リトポン」として市販されているのでフジタのはリトポン系というべきだろう。いずれにしろこれを膠で溶くと完全な吸収地(アブソルバン)テンペラの下地となるがフジタのは油性分を加えた半吸収地(ドミアブソルバン)と推定される。これに、炭酸カルシウムと鉛白を混ぜた油性描画材が加わる。白亜、胡粉などと呼ばれる体質顔料の成分は総て炭酸カルシウムでこれらは油分を加えると半透明になる。フジタの深みのある透明感ある画面はこの辺りが関係していると思われる。フジタの画面からはさらに和光堂のシッカロールが検出された。
 当時のシッカロールの原料は亜鉛華、タルク、でんぷんとされ、亜鉛華(酸化亜鉛)はジンクホワイトのこと、タルクは蝋石のことで粉砕すれば体質顔料に使われる。でんぷんは吸水性が強い。「あせも」などの防止に古くから使われていた。つまりいづれも下地材としては合理性がある。これらがあのフジタの画面の秘密なのだが、これから思い出すのは佐伯祐三の手製キャンバスである。彼もいろいろな素材を使い独自のキャンバスを作った。
 主な素材は白亜などの炭酸カルシウムの体質顔料と亜鉛華、鉛白の白色顔料を膠とボイル油(煮つめたリンシード)で混ぜこれにマルセル石鹸を加える。食いつきの良い、早描きに適う半吸収地のものとなる。カネヨのマルセル石鹸は今日でも市販されているがこれをもみじおろしで削る。和光堂のシッカロールとマルセル石鹸!美術史上の巨匠も意外と庶民的!!
 今日ではチューヴ入りの油絵具に油性、アクリル両用キャンバスで簡便に絵が描けるが、かくも絵画とは、素材にしろ技法にしろ色彩にしろ、追求し、工夫をすればキリがないほど懐の深い世界であり、造形史始まって以来先達はかく試行錯誤を繰り返したのである。そうした工夫によって美術史上に名を刻んだフジタの造形性は、戦争協力という外部的事情により抹殺されるべきではない。芸術はどんな政治的、経済的、社会的「価値」にも劣後しない、支配されるべきではない。だからこそ国家に随い国策に劣後した「彩管報国」は誤りなのである。
 画家の終の棲家はやはり絵画世界の中にある。 例えば、日本の風景を描く身から言わしてもらえば、美しい山河が削られてゴルフ場や高速道路が作られる、茅葺屋根の民家がドンドンなくなる、そういうことを正直我が身の痛みとして感じる。その脈絡で、自然を汚損させ、動植物を死滅させ、農林・水産業など生活を奪った原発には反対する。 一方、フジタやゴーギャンのように国を棄てるというならそれも結構。しかし半端なご都合主義はかえって身の不幸。フジタ、荻須、モディリアニ、シャガール、ピカソそれにゴッホもそうだ。「異邦人」は枚挙に暇ない。いずれにしろ自我に確固たるメティエなければ国など容易に棄てきれるものではない。どちらにしても、「創造」と「思想」表裏一体、ボケーッとしてられない。
 
この一曲