Ψ筆者作
「昔日の陽射し2」」部分 
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  佐伯祐三がヴラマンクに「このアカデミズム!」の洗礼を受けた1924年は、他にも象徴的な出来事が内外であった。一つはアンドレ・ブルトンによるシュール・リアリズム宣言であり、早くも今日に繋がる現代的芸術表現の萌芽が見られたこと。もう一つは明治期以来、本邦美術界のパイオニアでありリーダ―であった「大御所」黒田清輝の死である。また佐伯と並ぶ大正期のもう一人の主役級中村彝が37歳で死去したのもこの年である。
 この黒田の死に至るまでの流れを既出箇所から援用する。
≪明治維新以降の国策のスローガンとは「富国強兵・殖産興業」、「欧米列強に追いつけ追い越せ」の掛け声であり、諸外国から持ち込まれる情報に驚き、価値観の転換を迫られ、遅れを取り戻すべく諸制度の整備を急いだ。これは外交、政治、経済のみのことではない。文化・芸術もその国策の一環として位置づけられ、絵画においても、西洋画の、トーン、ヴァルールに係る明暗法、デッサン、立体感や質感、量感の表現などの諸造形アカデミズム、パースペクティヴ、解剖学、黄金分割などの造形科学等々、つまり、幕末にその萌芽を見た、それまでのりんごを「丸」で描くと言うのではなく、「球」で描くと言う造形視点の革命的転換に基づく修練が、油彩という新素材も得て体系化されたのである。こうした背景の中から、やがて本邦洋画界は
〇明治美術会(浅井忠ら)→不同舎→太平洋画会→太平洋画会研究所(ヤニ派・古典主義系)
〇白馬会(黒田清輝ら)→白馬会研究所(紫派・外光派系 )
 の二系統を中心とした勢力に大別される。
 この両者はともに「官展」である文展(文部省美術展)、それを引き継ぐ帝展(帝国美術院展)の傘下におかれ互いに勢力を競った。また工部美術学校から東京美術学校西洋画部にいたる教育・修行機関も官立であり、美校の、浅井忠の「浅井教室」、黒田清輝の「黒田教室」はそのまま前二系統の反映であり、その後の藤島武二らを加え、洋画界の指導者的立場にあるものは、官展のボス、官学の教官、即ち文化官僚であり、黒田にいたっては後に「貴族画家」たる貴族院議員となった。 
 つまり本邦洋画界はその草創期から、官展、官学、文化官僚、また褒賞や留学の制度、絵画共進会や勧業博覧会などの発表の場を通じて、明確にその意思を持った、強力な国家統制、国家支配の中におかれていたのである。(以下略、一部編集)≫
 佐伯祐三は1928年、「自分は純粋か!?」の問いかけを残し、創造に燃焼し尽した短い生涯を閉じる。佐伯以下前述したような画家たちの夭逝に唯一の救いを見るとしたなら、その創造が、精神が、爾後の強圧的国策や美術団体の俗習、因習に組されることなく、純粋な芸術世界のみで語られることですんだということだろう。
 佐伯死去のわずか三年後の1931年、満州事変が勃発する。そして1937年に日中戦争と拡大するが、その間の1935年、帝展と二科展等在野団体を一元化する、かの「松田改組」が行われるなど、本邦美術界は戦時体制に備えるための国家統制下に置かれることになる。
 ところで、縷々述べたが国家・国策と美術界のつながり今日では考えられないくらい大きなものであった。言い換えると美術界や美術家の社会的地位も相応なもので、例えば佐伯死亡記事は勿論、米子とともに二科入選した際には写真付きで新聞に載るなどしたが、今日では「えっ、あの画家が…」と思えるような画家の死亡記事はほんの数行の小さな扱いでしかなく、ちょっと名を売ったようなタレントにもはるかに劣後する。
 ともかくこの、、画家達が「彩管報国」(絵筆を以って国策に応える)という、本邦美術史上の最大汚点となる忌まわしい時代が到来するのである。
 それはまず1938年東京朝日新聞主催の「戦争美術展」に始まる。これは洋画は日清・日露戦争を主題とする戦争画、日本画は神道、武士道をテーマの歴史画が中心であったが、「戦争」を「美術展」の冠詞とするなど今日では考えられないような、当代の人心の戦争に対する「免疫性」を物語るものである。同じ頃「大日本従軍画家協会」が設立される。趣旨は従軍画家達の大同団結とそれによる「国防宣伝、宣撫工作、慰恤等に絵画を以て尽力する」ことであり、陸軍省後援で役員には官展側の藤島武二、在野(二科)側の石井柏亭等が就き、まさに先に述べた「松田改組」の成果を語るものであった。
 翌年それは陸軍の外郭団体としての「陸軍美術協会」となり、会長は松井石根陸軍大将、副会長は藤島武二(藤島死去後は藤田嗣治)、その後会則に「陸軍省情報部指導ノ下ニ陸軍ガ必要トスル美術ニ関スル総テノ問題ニ即応之ヲ処理シ以テ作戦目的遂行ニ協力スル」と、明確に戦争協力をうたい、名実伴に「軍芸一体」にものとなる。
 以後毎年、否年何回も、「聖戦美術展」、「大東亜戦争美術展」、「海洋美術展」(海軍)、「航空美術展」、「紀元二千六百年美術展」、「決戦美術展」など、名こそ違え戦争、軍事絡みの美術展がいくつも開かれ、それらは通常の美術団体展を遥かに凌ぐ観覧者を集めるのである。
 こうした一連の動きには先の藤島、藤田の他、中村研一、小磯良平、宮本三郎、安井曽太郎、梅原龍三郎、佐伯関係でも石井柏亭、伊原卯三郎、山田新一等、多くその後の日本画壇や美術団体の中心的存在となるの画家達の名が見える。
 そして戦局緊張の度を加えた1943年、「大政翼賛会」文化部指導により「日本美術報国会」が結成され「彩管報国」は一層明確となる。この会長は横山大観であり、彼が「紀元二千六百年奉祝美術展に出品したは「日出處日本」は、「神洲の霊峰を墨一色によって表はし、これに真紅の旭日を配した。これは筆技を超えた大観の優作であって、その奉祝の誠意を吐露した作品である」との評価を受けたが、それが時局を背景とした国威発揚の意義の評価であり、彼もそれを意図したものであることは疑いない。
 (つづく)