Ψ 筆者作  「古木」  F20 油彩イメージ 1
 最近のTVで放映される映画はCSも含めてほとんどアメリカ映画である。日米安保体制だか同盟国関係だかしらないが、アメリカ流の価値観や生活習慣を植え付けさせようというような陰謀ではないかと思いたくもなるほどである。昔のフランスやイタリア映画が懐かしい。本屋で「映画が芸術だった頃」とかいう表題の本を見かけた。日本映画に関するものだと思うが≪かつて映画は芸術だった≫との過去形の感慨はその方面の専門家も持っているようだ。これは日本映画に限らず世界的傾向なのだろう。その原因はズバリ「商業主義」だろう。興行的に成功しないものはダメ、それが望めないものはスポンサーもつかなければ配給もない、話題性が有り、金にならなければ価値がないとされる。これは映画に限らず、音楽、演劇等諸々のエンターテイメントも構造的には同じだろう。
 ともかく、芸術を取り巻く背景は大きく変わった。戦乱や不治の病により人間存在の脆弱さを前提としなければならない時代があった。未成熟の生産社会にあっては、人は貧困や差別や人間疎外等の混沌の中では生存にかかわる戦いを強いられた。そうした中にあって各種芸術は、緊張感とリアリティーをもって個々の人間に直接語りかけることができたのである。
 そして今時代は確かに、豊穣な物質、便利な暮らし、享楽文化を備えるという意味では一応の成熟を遂げた風だが、それは、人間の苦悩や迷いやは不安からの解放を意味しない。次から次に起こる社会的問題は枚挙に暇がない。鬱病や自殺、昨今のヴァーチャル人間、オタク人間の起こす諸諸の犯罪行為はGDPや長寿社会とは関係なくおこっているのである。それらは姿かたちを変え、むしろ一層複雑に、人間存在に係るあらたなテーマを投げかけている。 問題は、そうしたテーマは置き去りにされたまま、芸術がそれに対応した新たな創造を成し得ず、人間の側ではなく「時代の側」に傾斜してしまったということであろう。一方に国際政治、グローバル経済、生産と消費の諸システム、マスメディア、テクノロジー、商業主義文化、IT社会など有り、一方に、そのそれ自体が生命体であるごとく巨大に膨れ上がったモンスターに管理され、誘導され、情報操作され、人畜無害の「文化的価値」を提供され、流行りものや話題性に群れ集まる大衆有り。因みに先日の「なでしこジャパン」、そのネーミングの軽佻浮薄もさることながらながら、サッカーのサの字も知らないような小娘からジジババに至るまでのバカ騒ぎを見るにつけ、「≪がんばろう日本≫に勇気を与える」風の決まり文句の氾濫とともに、一体この国には覚醒した知性とか創造力豊かな人間は何人ぐらいいるのだろうか?と思いたくなるのである。
 ともかく「時代の側」の時代とは、その双互に展開する「集団的メカニズム」そのものである。それらに迎合し、その利害関係の中で生き抜くことを志向し、既存の権威主義や因習に壟断されまくるだけの文化芸術もそういう形で集団的メカニズムに組みされたものとなる。
 つまり、かつて芸術の「送り手」と「受け手」の関係は、「個」対「個」であった。今はそういう意味で「集団」対「集団」なのである。断っておくが「時代の変化」と芸術の形式の変化を認めないわけではない。好むと好まざるとに関わらずそれらは一定に不可避であろう。しかし、優れた芸術とは時空を超越して存在する。ルネッサンス芸術は時代とともに滅びたか!?バッハやモーツァルトは?人間という生物は「原存在」というべき芸術の受け皿となる部分を永遠に宿しているものなのだ。これに直接語りかける力があるのが真の芸術である。つまり、優れた芸術とは「個」まで下りてくるのである。言い換えると「個」まで下りてこない「集団」のレベルに留まっているのはニセ芸術であり、時代とともに消え去る運命にある。受けての側も集団的レベルしかないという悲劇はあるにしても…。
 前述の「映画が芸術であった…」に話をもどす。コンピューターグラフィック(C G)を駆使したアメリカ映画がもたらす「視覚的驚き」は、当初は確かにそれなりのものがあった。しかし、何度も見ると飽きてくる。そればかり見せられると、その子供じみた他愛なさにウンザりする。アニメは世界に誇る日本文化だそうだが、申し訳ないが、現実味のない夢ばかり見せられて「感動させられたり」、「癒されたり」するほど昔からこちとら単純ではない。そのアニメのフィギュアが「アート」を名乗るのは象徴的だが、アイロニーとしてなら安っぽいがアートと認めてもよいが。
 ことはエンターテイメントだけの話ではない。某作家を指した「最後の文士」という言葉があった。「文士」とか「文学青年」という言葉は、作品そのものとは別に周辺の芸術的環境や人格を象徴する言葉であった。そして、その人格自体がまた作品に結びついたりしたものである。文学は今や「○○賞作家」風の勲章で付き語られなければ話が始まらないような卑俗な集団的価値体系の中にある。「最後の」とは皮肉か自虐か妙にリアリティーのある言葉である。創造者が「集団性」に迎合すればそれは自らの首を絞めることになるという例は他にもある。
 残念ながら本邦美術界もそうだ。この辺を既出箇所を援用して語る。
≪…つまり本邦洋画界はその草創期から、官展、官学、文化官僚、また褒賞や留学の制度、絵画共進会や勧業博覧会などの発表の場を通じて、明確にその意思を持った、強力な国家統制、国家支配の中におかれていたのである。…中略…当初「文展出品者の出品を禁ず」をうたい明確に「在野」を旨とした「二科」以下も、例の「松田改組」と言われる国家による芸術抱きこみ策に飲まれる。やがてその国家支配・統制は戦争に傾斜していく国家主義の中では一層顕著になり、「彩管(絵筆)報国」はスローガンとなりやがて「日本美術報国会」や「戦争美術展」に繋がる。この日本美術報国会の会長が横山大観であり、彼の「富士山」は多く「国威発揚」のため描かれたものである。その「従軍画家」などの生き残り画家らが敷いたレールの上に今日の美術界の現況ある。…≫
 先の「集団性」と言えば本邦美術界ほど象徴的なものはない。繰り返すがこれは「伝統」であり、その本邦美術界の保守性は、様々な「国家報奨制度」を頂点とし、各美術団体の「階級制度」と密接に関係する。それがもたらすステータスやアドヴァンテージはそのまま「年鑑評価型市場体系」や、私が「ガレキの山」と呼ぶ画歴羅列主義に繋がる。このような、芸術に「ヒエラルキー」を設定している国は世界に例を見ない。もちろんこれが作品の内容に従ってのものなら納得もいくが実はそうではない。政治力、人脈、門閥、師弟関係、情実、流行など旧来の権威主義や因習が根強く関係する。繰り返すがこのような美術界の慣行は世界に類がない!
 創造と言うのは本来自由な純個人的行為である。その「個」がそれぞれ芸術の高い理想を求めての切磋琢磨し合うことにより美術界全体に緊張感ある活力が生まれ、芸術が充実するのである。ところがそうでなく、先に述べたような事情や美術団体内部の価値体系やスケジュールを如何に上手くこなすかに終始していたのでは、それは惰性と低迷を生むのが必然である。この美術界内部の「集団性」は、実はみずから画家個人や美術界の首を絞めることに繋がるだろう。(つづく)