


Ψ筆者作「青いバラシリーズ」 F0~SM 油彩
「 保守」と言う言葉がある。その文字そのまま意味を解釈すると「保ち守る」ということである。つまり、既存の何某かの「価値」を積極的に、若しくは概ね認め支持するということである。これは何も「保守主義」という政治的概念にとどまらない。「生活保守」、「市民的保守」、「自我保守」、「文化的芸術的保守」…諸諸ある。したがって例えば政治的には、反体制、進歩的・革新的であっても自我に関しては頑迷に保守であるという場合も存在する.。問題はその「保ち守る」べきものの如何によろう。ここではその諸諸の保守性の害悪あるいは罪悪性を考察する。
さて、何でも良いが自分がある分野の価値を究めようと思った時、当初はその分野に関しては無知であり未熟であり、鈍感である。だから学び努力する。この、自己啓発にあい努めるというのは、自己の現況に満足せず自己を高めたい、人生に何かをつかみたいという向上的意思であり当然「自我保守」ではない。
ただこれは言うは易く行うは難しで、強固な意志、その分野への向き不向きや性格等資質の問題、とりわけ能力など「資格要件」が大きく関わって来る。特に芸術文化など創造に関わる分野は「才能」の問題は如何ともし難い。しかし、多くの分野においては、その過程で、自己の力不足を知ったならば、一層努力をすれば相当の結果に結びつくし、最悪、資質や能力等の限界を感じ挫折ということもあっても、そうした意思さえあれば例えば他の分野に予期せぬ活路を見出す場合もある。
一方、そういう、相当の能力や努力や資格要件が求められ、現実の人間社会においては数多のリスクも伴うような面倒なものは避け、既存の価値感、既成の価値体系の上に乗っかる、自我の無理のない程度ありのままをを受け入れるという方が楽であるしケガもしないと言う考え方の「自我保守」の姿勢も数多ある。
当然前者の意思の方が貴重であるし、人生に意義を与えるものであるし、その自らの価値体系を確立したい、自分自身の人生を切り開きたいと言う主体的人格こそ評価も信頼もできるものである。後者の「保守的人間」には、既にそういう形で結論が出ており、学ぶべきものも、刺激されるものも何もなく、その意味で付き合うことに「希望」がない。例えば何かの価値判断について、その保守的人間の意見をわざわざ聞かなくても既存のものがあるので、それを直接判断すればよく、個人的にはその意味でそういう人間の存在は全く必要はない。
しかし、「努めざる、至らざる、備なわざる」、即ち自我の無知、無能、鈍感、未熟の方にことを合わせて語ろうとする者は数多存在する。つまり、自らを高めて価値に迫ろうとするのではなく、一方に何某かの逃げ道を用意しながら、高いところにある価値を自らの低さに下ろして語ろうとする姿勢である。
いずれにしろ、それはそれで自己を知る者の知恵であるし、外に出ない限り安全であるし、他に諸々都合や時間の問題もあろうから、ともかくそういう者は、応分の範囲で好きなようにしていればよいのであるが、傲慢不遜にも、全くその道には通用しない、場当たり的な御都合主義を以って価値の一座に連らなろうとする事例はいくつか見られる。
ところで、ネット社会の機能は新たなメディアとして様々な可能性を持つ。例えば他のマスメディアは所詮は紐付き、営利優先から時に自主規制、事なかれ主義、「大本営発表」の受け売りなど、現下の原発報道の扱いなどを見てもその限界を示している。それどころか、その原発創業時もかつての戦時報道も為政者のお先棒を担いだのだ。
そうした中ネットにおいて、昨今の震災や原発関連もそうだが、you-tuibeでの中国漁船の海保船への衝突映像の流出、海外においてはウィキリークスによるアメリカ国家機密すっぱ抜きなど、既成メディアでは為し得ないようなことを次々に為し、報道面でも迅速さ、多様さ、信頼度など既にそれを凌駕しているといえる。昨今のアラブ社会における一連の反体制運動を突き動かしたのも、ネット社会と言われている。
そうした事情に鑑み、当カテゴの絵画・芸術分野関連について言えば、一方に相変わらずの美術団体展や「年鑑評価型市場体系」の因習、惰性、低迷有り、一方に商業主義や話題性をベースとした「バブルアート」とすら呼びたくなるようなコンテンポラリーのハッタリ市場ある中、ネット世界に、真に腰の据わった、切磋琢磨のある、絵画芸術・造形世界の主体的意義を求めたくなるというのは一部で望まれていることでもあるし、当然のことであろう。
しかしそのネット社会にも弱点はある。それは一言で言えば匿名性が担保されていることによるヴァーチャルさである。それは勢い、趣味的な「自我保守」の受け皿、捌け口、駆け込み寺的性格を帯びる。 ヴァーチャルとは、夢想と現実の区別がつかなくなり、やがてその優先順位が逆転するということである。以前自らの掲示板投稿記事が批判され「自分の大事な世界が傷つけられた」として無差別通り魔に走った事件があったが、これはその極端な延長である。
(つづく)