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Ψ筆者作  青いバラシリーズより  F0~SM  油彩
 
 原子力発電所には建設当初より反対の声があった。しかし、推進側は、「十分安全である」、「将来の電力不足に備える必要がある」という二本柱の論拠によりその建設・推進を強行した。そのうち、「安全」に関してはその神話が崩壊したのは現実を見ての通り。
 今推進側は「想定外のこと」と口を揃えて語っているが、「想定外」とは想定の外の現実は無視してよいということではあるまい。ある専門家はそれを「最悪の言い訳」と切り捨てる。
 システムやメカニズムで何重もの安全を期し、その安全性は世界でも最高レベルと誇ったが、一体彼らには、本邦が、いくつものプレートが交錯している地震の巣の上にある、火山も多い、四面を海に囲まれ、地震発生時には津波は不可避、という世界にも例を見ない特別な地理的環境にあるということを考慮しなかったのだろうか? そしてその恐るべき事実の通りになったのである!
 例えば小惑星や隕石の衝突、飛行物体の落下などは 「想定外」と言えなくもないが、その場合でも安全を期すべきが「核」の取り扱いであろう。車や飛行機等どんなものも事故等危険のリスクは付き纏うが、放射能がもたらす、時間的、空間的被害の広がりは比較にならない。つまり、「安全」は事を推進するための方便であり神話に過ぎなかったのである。
 「将来の電力不足」についても、彼らにおいてはその「事実」を動かし難いものとして据え、それには手を付けづに、だからどうする、だから原発という発想しかなかった。これも神話である。
 後にも触れるが、電力が不足するというなら、電力の計画的使用、節電、代替えエネルギーの開発など、手がつけられる分野はいくらでもあったはず。要するに、原発の導入は電気事業当事者に限らない、戦後の高度経済成長路線の延長線にある、「生産性至上主義」、「開発優先」の国策に基づく産業界からの要請であり、その底流に、利害を一にする政・財・官の三角構造があったことは明らかである。
 ところで、件の事故以来連日のごとく原子力の専門家なるが学研畑の人が何人もTVの出演している。ところが不思議なことに正面切って、この明らかな原発の危険性を口にする御仁は少ない。「原発廃止」を唱える者は言うに及ばずである。そして「≪直ちに≫心配ない」、や「これくらいの数値は問題ない」など、原発に対する国民感情の沈静化とも思えるような楽観的論調を懸命に唱える。
 ところが、事実はどうだ?一向に収束の兆し見えず、次から次に問題が生じているではないか。とりわけ、ヘリコプターからの海水散布に始まり、消防車、特殊放水車両の導入、粉塵凝固剤、水ガラスから入浴剤、特殊布の覆い、メガフロート等々、「原始的」泥縄試行錯誤の連続を見るにつけ、その先端技術を駆使し、十分な安全性が担保された「現代の夢の器」と言われたものの底の浅さを思い知らされるのである。
 さらに、避難地域は拡大、放射能放出は海へも及び、被害は農産物から漁業ヘ広がるなど悪化しているではないか!?なおそれだけでは済むまい、件の電力事情もあり、企業の生産性や物流はそれこそ想定外の落ち込みをみせるのは必至であり、それは本邦資本主義経済の屋台骨を揺るがす事態に至るだろう。
 さらに、これは公にはあまり口にされない、できないことだが、少なからぬ市井の声として語られていることがある。それは、現場作業員は既に許容被曝量を超え、将来の重篤な疾病が危惧されるということ、のみならず、彼ら自身「決死隊」的覚悟を以ってことにあったっているのではないかということである。政府は被曝許容レベルの数値を引き上げようとしているが、これもこのシビアな事実の証左とも思えるし、だとするとその「神風ミッション」に係る人道上の批判を避けるにはそうする以外に方法はないだろう。
 少なくても彼らの心身の消耗・疲弊は事実であり、この人的被害、人道上の問題や前述のような悪化の一途をたどる事実が現にあるのに何故もっと原発の危険にふれないのであろうか?!
 ところで「産学協同」と言う言葉がある。これは、学術機関が知識や技術、人材を企業に送り込み、企業は研究費の援助や雇用で学術機関に応えると言う同一利害関係の図式である。これは特に機械、電気、情報などの実学に多い。もし原子力分野の学者、専門家がそうならこれは、原発に関しては客観的立場はとり得ず、東電や経産省保安院と同じく、ことの「当事者」であるということを忘れるべきではなかろう。
 そしてこれを登場させるTV局も、口では「節電を」とい言いながら、いまだに24時間番組を放映しているのはどう説明がつくのだろうか?
  (つづく)