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Ψ 筆者作「城と橋のある街」 M50 油彩(大作ギャラリーより転掲)

 ものごとを習う、学ぶに遅すぎることはないという言葉があるが、それもものによりけり。確かに時間的制約があるものもある。造形世界は、子供の頃からデッサンの一から始めた人でも、その奥義を極めるというのは難しい。多くの先達が自己の未熟に比し、残された時間の少なさ述懐している。しかし、そうであっても、洋画は懐の深い世界でもある。必ずしも美大で学ばなくても、厳格な造形アカデミズムをものにしなくても、下手なら下手なりに活路はある有難い世界が洋画の世界である。
 例えば風景画を描く時、自然はウソがない。それと通い合う、美意識や造形モテベーションにもウソはない。だから下手でもなんでも、「一定の要件により」一生懸命自分の持っているものをぶつければそれなりに真実の作品ができるのである。
 先のルソーもグランマもそうであるし、精神尋常ならぬゴッホも知的障害を抱えた山下清もアル中のユトリロも、みんなそういう絵である。ただ共通していることは、総て「絵画的価値」を具備しているということである。
 どんな世界でもそれなりの価値体系がある。絵画にも絵画的価値というものが厳然としてある。これに背を向けては話にならない。あるいは、描きたいものを描きたいように描け、楽しければ良いといっても、描きたいものを描きたいように描けないのが常であるし、描けなければ楽しくもあるまい。また、少しでも描き進めば、公募展に応募したり展覧会で人目に晒したくなるというのも人情である。この辺に、造形性に真正面から対峙し、相応の修行をしなければならないという必然性がある。
 ウソの無い世界でウソのない自我を求める。このことに専門家もアマトゥール(アマチュア)もビギナーもない。それぞれの立場で絵画的価値を希求する。絵画芸術の意義を理解し、造形の本質と正対する。ウソやハッタリやゴマカシや形やスタイルばかりで塗り固めても意味はないのだ。
 ≪Je pense, donc je suis (われ思う、故にわれあり≫とは、「自我は不安定な危い存在である。しかし、思惟ある時、その「思う」という行為は現実であり事実なのでその限りにおいて自我は存在できる」という趣旨のようだ。この「思う」を「描く」に変えたら、そのまま縷々述べた創造、造形の意義に通ずる。つまり描くことは自己確認なのである。そうであるならその描くという行為がけれんみのない真実でなければならない。
 私は子供の頃より数え半世紀近く絵を描き、アカデミーにも席を置き、内外数万点に及ぶ作品を見てきた。ここでの発言は、少なくてもその私が正直思うところを、その限りの責を以って述べているのである。創造の自由とはものは言いようでどうにでもなるという野放図までも含めるものではない。


☆この作品の舞台となったハイデルベルグでのアンドレリュ―の公演。

http://www.youtube.com/watch?v=IhQC8JK3XQE&NR=1