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Ψ筆者作「金色の果実」 F4 油彩

 何度か取り上げたエピソードだが、今や遥か10代の末頃、通い始めた研究所での課外講演会で聞いた某画家の言葉、「りんご一つまともに描けないのに(能書きばかり言って…の趣旨)」という言葉が常に脳裏から離れなかった。他にその道のオーソリティーが同席する中で随分思い切ったこと言うものだなぁと思ったが、それは自分にとって、絵画に取り組む姿勢とか造形の原点とかいうものになったし、そうした原点を忘れない限り、まがりなりにも、絵画芸術の精髄とか、造形の本道のようなものから逸れなくて済むといった確信のようなものを抱かせたのである。
 つまり、造形アカデミズム(写実主義)的立場に立った場合でも、りんご一つ描くのは難しい。その本当の難しさはその立場で描きこまなければ判からない。クールベの描いた「りんごとざくろ」という絵を観た時、それまでの観てきたもの、勿論自分が描いてきた「りんご」が遥かりんごにも至ってないことを思い知らされた。それはまさに生命そのものであった。先ずその傾向の場合、このアカデミックな造形性が甘いのはダメ。
 一方、アカデミズムの厳格さを避けたり、「ごまかしたり」しながらでも、ある種の絵画は成立する。印象派以降の非古典主義系絵画などがそうだ。それらは、古典主義、写実主義のアカデミズムを否定したところから生まれた。そのアカデミズムに飽き足らない新しい造形価値を提示したのである。その新しい価値とはアカデミズムに比肩、あるいは凌駕すると彼らが信じるものであったはずだ。それくらいの意義がなければ否定したことにならないからである。即ちアカデミズム以上の造形価値があるものとは、当然半端なものではないはずである。その造形感覚は相当研ぎ澄まされ、練磨されたものでなければならない。然るに昨今の本邦具象絵画は、形やスタイルばかりを追いかけ、あるいは画壇や市場という現実的事情内に収まりその辺も甘い…件の画家の「りんご一つ…」とはその辺を批判的、象徴的に言ったものであると解釈される。
 さて、自分にとって、あるモティーフが「描けるものなら描いてみろ!」というよのな感じで迫ってきたら「描いたろやんけ!」と返したほうが諸々面倒臭くないと思えるのである。