その文学性に因み、時代や状況との関わりを含め、創り手の何某かの思想を受け手に伝えることを意図するという「メッセージ性」そのものは芸術の一つの重要な領分であるが、絵画においてそれは文学的である必要は全くない。また言葉に換価される必要もないし、直接的表現である必要も無い。そればかりかあからさまな「意味づけ」や「象徴」や「思わせぶり」は絵画を安っぽくするばかりで、絵画の本来の機能性の桎梏とさえなる。これは当たり前の話なのだが、この辺を識別できてない論調が一部にある。
 勿論そういうメッセージ性の強い絵は数多あるが、美術史上に残っているようなものは例外なく絵画的効果に乗った表現性や強い造形的価値に裏打ちされているものであり、そうでないものは単なる風俗画に留まったり、政治主義と命運を共にするプロパガンダ絵画で終わったりしているものだ。

 さて、「芸術は真実を伝えるもの」であるので、その目的に敵うなら手段は「ウソ」でもよい。むしろ真実をより効果的に伝えるには、「ウソ」の方が都合がよい場合がある。それがもっとも容認されているのが絵画である。それは「デフォルメ」から始まり、野獣派、幻想画、抽象画へと美術史の流れにも明らかである。
 前述のゴッホ、セザンヌの絵はリアリズムの範疇に組みされないが、彼らの手法で人間、自然、物質の「リアリティー」を抽き出そうとしたことに変りはない。彼らはそれ以前の、古典主義系列、印象派の画家達に比べれば、造形アカデミズムという意味のデッサンの「ヘタさ」は東西の横綱級である。しかしながら、ゴッホの向日葵や星月夜は現実のそれ以上に向日葵であり星月夜である、という迫力を以って迫る。セザンヌは自然を≪円筒形、球形、円錐形≫に分析してしまった。

 いずれも彼らなりの「リアリティー」追究の結果であり、後続の造形に多大な影響を遺した。つまり彼らの創造の価値や意義が、従来の絵画の価値観の指標の造形アカデミズム(デッサン力)とかリアリズム(描写力)の範疇でどの辺に位置づけられるかで語られるのではなく、その価値観の指標自体を変えつつ絵画空間に新しい「真実」の地平を切り開いたということで美術史上で別格の位置を持つのである。洋の東西を問わず、どれだけ多くの「ヘタな」絵描きが彼らに勇気づけられたことだろう。それだけでも彼らは「偉大」なのである。
 なおそれ以前の印象派も、従来の絵画空間に「大気(空気)遠近法」や光のスペクトル、時間の概念などを導入したことから「リアリズムの極致」とする見方もある。
(つづく)