本日(27日)より始まった「佐伯祐三・下落合風景展」を「新宿区歴史博物館」に観に行く。フェルメールの「B級」展の無料観賞以来の展覧会である。何故新宿かと言うと、下落合は新宿だからだ。したがって、佐伯絡みで下落合に住んでいた画家達のエピソードを図録に紹介。中村彝、鈴木誠、曽宮一念、前田寛治、里見勝蔵他。佐伯は第二次渡仏の際、飼っていた数羽のニワトリとともにイーゼルを曽宮に贈る。そのイーゼルには佐伯の筆で「ソミヤ」と書かれ、曽宮はそのイーゼルを大事にし戦争中も疎開させたので今もそれを見ることが出来るのである。その消えかかった「ソミヤ」の「ソ」の字が見えた。
佐伯と中村彝に直接の接点はなく、佐伯が彝を意識していたと言うのは評伝程度で漠然としか知見しなかったが、今回具体的エピソードを知る。それは前田寛治が彝の「芸術の無限感」と言う著作のことを佐伯に話しているのを曽宮が目撃していたというもの。その際か前田が「エロシェンコ」の画像を見せた時、既に「このアカデミズム!」の洗礼を受けていた佐伯がルノワール調だったのか「この線が気に食わん」と言ったいう話もある。
鈴木誠は、佐伯の第二次渡仏の際は佐伯のアトリエの留守番をしていたはず。米子が佐伯と弥智子の遺骨とともに帰国した際里見勝蔵と大阪で出迎えた、佐伯と一緒だったのは佐伯の第一次パリ滞在の時である、とは鈴木自身の言葉で明らか。ところが、山田新一、伊原宇三郎らの評伝では「クラマールの森脱走事件」の際捜査隊に鈴木誠がいたという。本人が間違うとは考えにくいのでこれは評伝の誤りであろう。ともかく色々なことに思いが及ぶ下落合人脈である。下落合在住だった画家達の所在を示す地図もあったが、これは何故あそこにあんなにと驚く。 作品は少ないが、資料的価値は十分。パリ滞在時と下落合を分けて展示、後者には現在の下落合の写真と図録に描画現場の地図を添付。因みに、大正12年の住宅地図に、先に述べた「酒井億尋」らしい「酒井」の名が佐伯アトリエ所在地に確かに重って見える。
ところで佐伯のパリのモティーフだが、例えばシテ島、エッフェル塔、セーヌ川、ノートルダム寺院、サンマルタン運河、サクレクール、モンマルトル等、誰でも描く様な、(因みに私は全部描いたが^^)名だたるパリの名勝地全くない。佐伯はそうではない、何の変哲のないパリの街角、壁、扉、店先、広告などそのディテールを好んで描いているのだ。これは佐伯の特別な造形資質と見るべきであろう。と言うのは、彼が描いた下落合もそうなのである。当時の下落合は東京でも最先端の洗練された洒落た洋館が目立つような街づくりにあった。それは「目白文化村」の名称にも残る。ところが他の画家と違い佐伯はほとんどそれらを描いていない。八割以上は、阪本勝の言う、「みすぼらしい、吹けば飛ぶような」、佐伯アトリエから西、今の西武新宿線の中井駅方面の、素朴な武蔵野の面影を残す住宅地を描いている。このことにより、佐伯の再渡仏の切望の理由の一つである「下落合は絵にならない」を、みすぼらしい場所だからと言う阪本の解釈は誤りである。
いずれにしろその「パリを描きたい」の命がけの切望は、改めてそのパリと下落合の作品の出来の違いから感じざるを得ない。「下落合は絵にならない」は別の次元にあると解釈すべきである。わずか30歳のあれだけの完成度に驚く。有名どころでは「リュクサンブール公園」、「レ・ジュ・ド・ノエル」、「広告塔」など。
資料としては柳行李二点。あの体であの巨大な行李をどうして運べたのか驚く。米子も足が悪いし、弥智子もいる。絵を描かんがための執念の為せる業としか思えない。米子の貴重な作品一点も展示。聖母病院バックの花の絵である。
さてこの新宿歴史博物館とは新宿曙橋近くにある。靖国通り越しの直ぐが私が通った富久小学校で6年住んでいたアパートもあった懐かしいところ。博物館の別室ではレトロな昭和の住宅内部を再現していた。今日は大正、昭和ヘのタイムスリップの日!