あの国家統制下、翼賛体制下にあっても国家支配に抗して真の在野を貫いた団体もなかったわけではない。自由美術協会や糸園和三郎、大野五郎、麻生三郎、鶴岡政雄、寺田政明らの新人画協会、アンデパンダン系などがそうだが、その流れを汲むある団体のベテラン画家に聞くと、これら思想性、メッセージ性の強い団体も、今やその当初の志も理念も希薄となって来ているそうである。
 先に本邦の絵画的環境を「集団性」という言葉で括ったが、その集団性のうち「国家統制」の部分は、戦後の「民主主義」のタテマエから戦前ほど露骨ではなくなったが、その代わりもっと始末の悪い新たな集団性がさらにその上を覆い、美術界自体との二重の集団性という構図ができ、絵画芸術をめぐる環境は悪化の一途をたどっていると思わざるを得ない。
 その新たな集団性とは、戦後一挙に押し寄せたアメリカ文化、物質主義 、及びそのテクノロジーとマスメディアの発達を背景とした商業主義の支配である。それは一方で「日米同盟関係」をベースの、「自由と正義の担い手」アメリカンモラルとヘルシー志向の「一億総優等生化」を目指し、一方でCGや3Dなどの視覚的オドロキなどの刹那的快楽趣味に走り、「個の労働」の結果としての文化ではなく、得体の知れない「現象」としての文化となり、人畜無害で画一、平均化された「使い捨て」文化となる。
 この波に絵画に限らず文学、音楽、映画、演劇、総ての芸術が飲み込まれてしまったとの観がある。この「ミーハー性」とも呼ぶべき新たな集団性の文化、つまりミーハー文化においては、「価値」は如何にマジョリテーの支持を得るか、興行的に成功するかがバロメーターとなる。
 「小説あって文学なし、作家あって文士なし」と言う言葉を聞いたことがある。役者も映画監督も昔のような、その道で修行を積んだプロ中のプロが作る練成されたものではなく、話題性があればド素人でもよい。映画にいたってはアメリカ映画しか配給しない。かつて人間社会で由緒ある芸術であったものが、今や市民的「趣味・娯楽道」でしか生きられていないものもある。
画家も同じような命運をたどるのではないだろうか。将来、今「佐伯祐三」を語っているような、特定個人の芸術家の名前が語られるようなことはなくなるだろう。
 しかし、これも美術界に限ったことではないが、そういう時代だからこそ、ホンモノとは、逃げも隠れもせず、生活と戦いながら自我の信念に徹し、ひたすら自己開発にあい努めることに意義があり、悔いも残らないというものであろう。暗い夜にこそ星は冴え返るもである。
 時代に翻弄されることは愚の骨頂である。一方で、何処か安全地帯でタテマエ論やお題目を唱えていてもクソにもなるまい!