九州から帰って10日余り過ぎた。棚田シリーズも未だ半ばにも拘らず、今新しいモティーフのことで頭が一杯。取り合えず、いつでも対応できるようキャンバス張りから始めた。120号、60号、40号各一点、30号以下多数。これだけ揃えておけば取り敢えず良いだろう。一段落したところで、別の必要性のため何か良い資料はないかと、学生時代から馴染みの古本屋街を訪れた。
 購入したのは、先ずクルト・ヴェールテの「絵画技術全書」。この手の技法書といえば古く15世紀のチェンニーノ・チェンニーニの「絵画術の書」があるが、ヴェールテのは1967年初版なので新しい本。 
 またもう一冊、岡鹿之助著の「油絵のマティエール」も購入した。いずれも関係方面ではバイブルのようなもので、筆者も何度か眼を通したものであるが、今般敢えてそれらを揃えたのは、個々の技術習得と言う趣はなく、洋の東西、古今を問わず画家達が、絵画芸術の基礎となる部分について、どう対処し、どう実行していたかということ、それらが今現在どのように捉えられているかということを知ることにあった。技法と言っても実技を伴う具体的描き方を説くのは不可能なので、主に素材や造形の考え方に係るものである。
 チェンニーニのは主としてテンペラ、フレスコ等油彩以前の技法に係るものであるが、周知のように今それら素材を使った造形が先祖返りのように脚光を浴びているが、未だ精読に至らないが、各技法書とも総て、古今東西を問わずなお生き続けている体系であることが直感できた。
 考えて見ると、このような今もなお何処でも通用するという「マニュアル」はおそらく絵画と音楽ぐらいで、他のメティエや業界のそれは時代の変遷と供に過去の遺物となるのに比し、その懐の深さと永遠の価値を改めて思うのである。
 例えばアクリル絵具と言う新しい素材がある。この素材のことは当然件の技法書には書かれていない。しかしアクリル絵具と言う素材の性格や展開は、既に500年も前からあった素材のメディウムの代用に他ならない。
 テンペラとはテンペラーレ(temperare)と言うラテン語から派生した言葉であるが、その語源は「水に溶かす、混ぜる」と言う意味。しかしそれだけでは、透明水彩絵具やグァッシュのメディウム、膠のように水に再溶解するものと区別がつかない。そこで「一度固まると再溶解しない」と言う定義が加わる。
 アクリル絵具は水で溶け、固まると水に溶けない。つまり前記定義によれば、アクリル絵具もテンペラの一種なのである。しかもこれは乾燥が速いのでボカシなどによりトーンが付けられない。そこでハッチングという技法が生まれる。そのハッチングこそテンペラのトーン付けの方法に他ならない。
 つまり、アクリル絵具の発色の良さを加味しても、「卵テンペラ」のそれを超えるものではないし、その意味で、卵テンペラはこれらの総てを包含して余りある500年以上も前からの素材であると言うことが言える。
 しかし油彩が登場してからは造形の主役は油彩へ移っていった。油彩はそれ自体脆さもあり、決して完璧な素材ではないが、それにも関わらず、その深み、コク、「マイナス描画(削り取りなど)」や混色など、古典からコンテンポラリーに至るまで、技法の展開の幅広さなど、他の素材の追随を許さないメリットがあることにより、「絵画」というと「油彩」、「絵描き」と言うと「油絵描き」という状況のごとく、多くの画家がその魅力と可能性に惹かれたのである。
 話をアクリルにもどすと、これは相当厚塗りしても、水分が蒸発して乾燥するとその体積は半分以下に減る、つまり著しく収縮するのである。そこでモデリングペーストなどを地に仕込むが、最初から厚い絵具層だけのものとは全くマティエールのコク、重さが違う。削り取りや地を生かすなどのマティエールの効果的展開もない。
 つまりアクリル絵具は、筆者もそうであるが、乾燥の便による屋外でのスケッチに使ったり、、作品固有の物質的造形価値が問われない、コンテンポラリーの大画面やイラスト、商業美術等には便利な素材であるが、造形史の中では一応結論の出た素材と言うことが言えよう。したがってこれに名実供に新素材としての意義を与えるには相当な工夫が必要だろう。例えばトーン付けにマスキングを伴うエアブラシという方法があるが、これは既に陳腐な手法であり、下手すると機械的画一的でつまらいものとなる。
 何かを混ぜてその軽薄な発色を抑えるということもあるが、混ぜる素材は技法書に書かれているいるようなものとなろう。
 等々、絵画が、支持体、顔料、メディウム等の一定の土俵からなる創造・表現媒体である以上、件の技法書は現代でも充分通用するのである。
 他に、本邦の洋画界の流れ、周辺を追った宮川寅雄著「近代美術の軌跡」も購入。あと猫を病院。9月も出捐から始まった。