内外の画家達の発言で共通して名前が挙がったのがセザンヌとゴッホだったと先に述べたが、これにもうもう一人ゴーギャンを加えると美術史上では「後期印象派」と呼ばれる集団となる。その意味での同派の存在の大きさを感じるが、それというのもこの三人がそれぞれ近代絵画の各傾向を代表していたからだと思う。ゴッホは内面の表現性、セザンヌは理知的で純粋な造形性、ゴーギャンは「我々はどこから来たのか…」とか「タヒチの脱文明」などに現れる、人生を問いかけるような表現性と、色彩や構成の純造形性の併存、いずれもその後の絵画芸術の展開に大きな方向性を示したものといえる。
ところでこういう発言に出遭ったことがある。
≪これこそタブローだ!部分、全体、量、色の的確な対比、構図、身ぶるい、総てがある。…中略…今はすぐ厚い絵具から描く、左官屋のように不器用に始める。で、とても率直で、上手だと思っている。…なんていうことだ。この準備の技術を忘れてしまったんだ。下描きが与える流れるような生気を、正しい肉付けを。調子じゃない、今日じゃ…調子をつけるだけだ!やり直して、引っかいて、また引っかいて、厚塗りになる。まるで漆喰屋だ。あるいはまた、もっと簡単な、日本人は、君も知るように、彼らの人物を乱暴に輪郭で囲み、物は一本の粗い線で、略して描き、支えに、淵まで一杯に平らに色を塗る、ポスターのようにナマだ、打ち抜き型のように、刷り物のように描く。全然生きてない…≫
まことに「アカデミックな」ことばである。実はこれはその後期印象派のセザンヌ、しかもサントヴィクトワールの画境に入った頃の晩年のセザンヌの言葉である。そして、同時代の印象派、それに影響を与えたとされる日本の浮世絵も批判している。因みに批評の対象となった作品は古典派、ヴェロネーゼの≪カナの婚礼≫である。
前回価値観の「交錯」について触れたが、これもそれであろう。
してみると、実はそれは交錯でもなんでもなく、我々が日頃語っている、古典派、印象派、立体派、フォーヴ、あるいは表現主義傾向、造形主義傾向、アカデミズム、自由奔放主義等はあくまでも便宜的な外見上の区分けに過ぎず、絵画芸術としての価値の本質はそう言うものを超越したところに厳然と横たわっているものであり、画家は常に本能的に直接その本質を見るものであると言うことが言えそうだ。
逆に言えばその本質に達すべき方法論は自由であるが、その本質に眼を背けたら絵画芸術としての価値に絶対に到達できない、そういうことであろう。
ところでこういう発言に出遭ったことがある。
≪これこそタブローだ!部分、全体、量、色の的確な対比、構図、身ぶるい、総てがある。…中略…今はすぐ厚い絵具から描く、左官屋のように不器用に始める。で、とても率直で、上手だと思っている。…なんていうことだ。この準備の技術を忘れてしまったんだ。下描きが与える流れるような生気を、正しい肉付けを。調子じゃない、今日じゃ…調子をつけるだけだ!やり直して、引っかいて、また引っかいて、厚塗りになる。まるで漆喰屋だ。あるいはまた、もっと簡単な、日本人は、君も知るように、彼らの人物を乱暴に輪郭で囲み、物は一本の粗い線で、略して描き、支えに、淵まで一杯に平らに色を塗る、ポスターのようにナマだ、打ち抜き型のように、刷り物のように描く。全然生きてない…≫
まことに「アカデミックな」ことばである。実はこれはその後期印象派のセザンヌ、しかもサントヴィクトワールの画境に入った頃の晩年のセザンヌの言葉である。そして、同時代の印象派、それに影響を与えたとされる日本の浮世絵も批判している。因みに批評の対象となった作品は古典派、ヴェロネーゼの≪カナの婚礼≫である。
前回価値観の「交錯」について触れたが、これもそれであろう。
してみると、実はそれは交錯でもなんでもなく、我々が日頃語っている、古典派、印象派、立体派、フォーヴ、あるいは表現主義傾向、造形主義傾向、アカデミズム、自由奔放主義等はあくまでも便宜的な外見上の区分けに過ぎず、絵画芸術としての価値の本質はそう言うものを超越したところに厳然と横たわっているものであり、画家は常に本能的に直接その本質を見るものであると言うことが言えそうだ。
逆に言えばその本質に達すべき方法論は自由であるが、その本質に眼を背けたら絵画芸術としての価値に絶対に到達できない、そういうことであろう。