筆者1
「orionさんの文を読んで、絵描きの価値観と言うのは複雑で一筋縄に整理することは難しいと思いました。先ず引用した小出楢重のアカデミックな認識は、元々西洋から伝えられたものなので西洋のアカデミズムと同じものです。つまりヴラマンクが否定しているものはそれです。そのヴラマンクはセザンヌとゴッホを評価しているようですが、「みずえ」の佐伯特集に引用された小出の手紙では、小出はまさにそのセザンヌ、ゴッホ以外にパリには見るべきものがないと、西洋美術伝統のアカデミズム含め他を酷評しています。そして佐伯とは対照的に滞仏の意義を感じず早々に帰国していますが、これは「下落合ではダメ」と、自分の造形性は日本の土壌に馴染まないと判断した佐伯と対照的です。因みにその佐伯の「パリ遠望」はまさにセザンヌですし、ヴラマンク以後はユトリロやゴッホに傾倒する。
またヴラマンクは立体派(キュビスム)を否定しているようですが、それでセザンヌを評価するというのはちょっとおかしい気がします。キュビスムの源はセザンヌの「サント・ヴィクトワール」シリーズにあるのですから。これはセザンヌ以降のフォーヴとキューヴの「跡目争い」の様相すら感じます。
こうしてみると共通して現れる名前は、セザンヌとゴッホです。これは彼らの偉大さの表れかもしれませんが、一説によるとそのセザンヌはゴッホの絵を「気〇いが描くような絵だ」と言ったとか。(多少当たってますが)
つまり、絵描きとは結局は自分の絵が一番!そういうことなんでしょうか。 」
hmm氏
「結局絵描きは描きたいものを描きたいように描くしかないのではないですか。技法?。絵の具の扱い方などは経験を積み重ねれば良い。問題はコンポジション。色彩と形体の全てをを、キャンバスの画面という空間の中にいかに調和させるかということ。空間認識力とでも言うべき能力。この能力が備わっていれば、如何様に勝手気ままに描いても絵になる。ピカソが良い例だ。私はこの能力を本当の意味のデッサン力と呼んでいて、だからデッサンの勉強は必要だなどと言ってきたが、昨年来たウングワレ-と言うアポリジニーのおばあちゃんは、デッサンなど経験してないのに見事に空間認識力を発揮していた。 」
筆者2
「 この辺の話は昔から堂々巡りのような議論となってましたね。
「 描きたいものを描きたいように描くしかない」。その通りなのですが、「描きたいように描ければ」文句ないところですが、そうは簡単には行かない、だから技法を学ぶ、無駄な経験を積むということもありますので合理的な経験でなければならない。やはり技法・技術が早いということもあります。
ピカソが豪州アボリジニのようなアフリカの土民彫刻の造形性に強く影響を受けたのは周知のところですが、そのピカソは「人間美術史」と言われるくらい、その造形性が遍歴を重ねています。確か父親はデッサン教室を開いていたようですし、その影響もありピカソは15歳にして既にヴェラスケス並みの描写力を示していたと言う話もあります。
こうなると芸術云々は作品そのものより創り手の意識とか思想とかキャラクターの問題のような気もしてきますが。 」
whiteorion氏
「この問題は基礎的鍛錬については必要であるという立場がまず前提であることは間違いないでしょう。その上でのお話だと思います。画家はその時代に生きる画家よりも一番上と考えるのは皆一緒かもしれません。
佐伯に及ぼしたブラマンクの怒号は彼の信念からでたものでしょう。
里見のブラマンク評をしばらく書いてみます。
ブラマンクには三期に分かつべき表現の変化がある。
野獣派時代1900年~1907年
セザニアン時代1908年~1919年
完成期1920年~1958年
1901年ごっこ回顧展を見たブラマンクは大変感激し、この会場でドランにマチスを紹介されたとき、「我々は生の朱や緑、コバルトで描かねばならぬ!」と叫んだ。時にマチス32才、ブラマンク25才、ドラン20才である。1905年の秋ブラマンクはサロン・ドートンヌに5点出展した。サロンでは同傾向の絵が一室に集められて、喧々諤々たる世評を起した。-驚異的ーいかなる絵画とも関係ないー奇形の難色ー乱痴気騒ぎー花火ー6歳の子供の絵ー人を愚弄するードランとブラマンクは黄、青、橙等の恐ろしい厚塗りーラッパ銃に絵具を詰めて画布に発射したー気違いか道化か・・・・。人々はついにこの一群を野獣派と名づけて嘲笑した。1906年セザンヌは永眠。精鋭多感なフォービストたちは連年発表されたセザンヌに強く刺激されて、セザニウムに入る。
1918年終戦。ブラマンクは翌年バルモンとに新居を構えた。そした新写実主義が到来した。修行時代をパリで過ごすのも一方法だ。しかし自分の絵を描かねばならぬときには、パリから去り、田舎に住まって仕事をせねばならぬ。フランスの偉大な画家は皆田舎で真実の仕事をした。田舎にただ一人で仕事をするためには、強固な精神と、卓越した技量を持たねばならないが、なお自分ひとりと、パリの多くの奴らと喧嘩しても、負けないゲンコツを持つ必要がある。」
「orionさんの文を読んで、絵描きの価値観と言うのは複雑で一筋縄に整理することは難しいと思いました。先ず引用した小出楢重のアカデミックな認識は、元々西洋から伝えられたものなので西洋のアカデミズムと同じものです。つまりヴラマンクが否定しているものはそれです。そのヴラマンクはセザンヌとゴッホを評価しているようですが、「みずえ」の佐伯特集に引用された小出の手紙では、小出はまさにそのセザンヌ、ゴッホ以外にパリには見るべきものがないと、西洋美術伝統のアカデミズム含め他を酷評しています。そして佐伯とは対照的に滞仏の意義を感じず早々に帰国していますが、これは「下落合ではダメ」と、自分の造形性は日本の土壌に馴染まないと判断した佐伯と対照的です。因みにその佐伯の「パリ遠望」はまさにセザンヌですし、ヴラマンク以後はユトリロやゴッホに傾倒する。
またヴラマンクは立体派(キュビスム)を否定しているようですが、それでセザンヌを評価するというのはちょっとおかしい気がします。キュビスムの源はセザンヌの「サント・ヴィクトワール」シリーズにあるのですから。これはセザンヌ以降のフォーヴとキューヴの「跡目争い」の様相すら感じます。
こうしてみると共通して現れる名前は、セザンヌとゴッホです。これは彼らの偉大さの表れかもしれませんが、一説によるとそのセザンヌはゴッホの絵を「気〇いが描くような絵だ」と言ったとか。(多少当たってますが)
つまり、絵描きとは結局は自分の絵が一番!そういうことなんでしょうか。 」
hmm氏
「結局絵描きは描きたいものを描きたいように描くしかないのではないですか。技法?。絵の具の扱い方などは経験を積み重ねれば良い。問題はコンポジション。色彩と形体の全てをを、キャンバスの画面という空間の中にいかに調和させるかということ。空間認識力とでも言うべき能力。この能力が備わっていれば、如何様に勝手気ままに描いても絵になる。ピカソが良い例だ。私はこの能力を本当の意味のデッサン力と呼んでいて、だからデッサンの勉強は必要だなどと言ってきたが、昨年来たウングワレ-と言うアポリジニーのおばあちゃんは、デッサンなど経験してないのに見事に空間認識力を発揮していた。 」
筆者2
「 この辺の話は昔から堂々巡りのような議論となってましたね。
「 描きたいものを描きたいように描くしかない」。その通りなのですが、「描きたいように描ければ」文句ないところですが、そうは簡単には行かない、だから技法を学ぶ、無駄な経験を積むということもありますので合理的な経験でなければならない。やはり技法・技術が早いということもあります。
ピカソが豪州アボリジニのようなアフリカの土民彫刻の造形性に強く影響を受けたのは周知のところですが、そのピカソは「人間美術史」と言われるくらい、その造形性が遍歴を重ねています。確か父親はデッサン教室を開いていたようですし、その影響もありピカソは15歳にして既にヴェラスケス並みの描写力を示していたと言う話もあります。
こうなると芸術云々は作品そのものより創り手の意識とか思想とかキャラクターの問題のような気もしてきますが。 」
whiteorion氏
「この問題は基礎的鍛錬については必要であるという立場がまず前提であることは間違いないでしょう。その上でのお話だと思います。画家はその時代に生きる画家よりも一番上と考えるのは皆一緒かもしれません。
佐伯に及ぼしたブラマンクの怒号は彼の信念からでたものでしょう。
里見のブラマンク評をしばらく書いてみます。
ブラマンクには三期に分かつべき表現の変化がある。
野獣派時代1900年~1907年
セザニアン時代1908年~1919年
完成期1920年~1958年
1901年ごっこ回顧展を見たブラマンクは大変感激し、この会場でドランにマチスを紹介されたとき、「我々は生の朱や緑、コバルトで描かねばならぬ!」と叫んだ。時にマチス32才、ブラマンク25才、ドラン20才である。1905年の秋ブラマンクはサロン・ドートンヌに5点出展した。サロンでは同傾向の絵が一室に集められて、喧々諤々たる世評を起した。-驚異的ーいかなる絵画とも関係ないー奇形の難色ー乱痴気騒ぎー花火ー6歳の子供の絵ー人を愚弄するードランとブラマンクは黄、青、橙等の恐ろしい厚塗りーラッパ銃に絵具を詰めて画布に発射したー気違いか道化か・・・・。人々はついにこの一群を野獣派と名づけて嘲笑した。1906年セザンヌは永眠。精鋭多感なフォービストたちは連年発表されたセザンヌに強く刺激されて、セザニウムに入る。
1918年終戦。ブラマンクは翌年バルモンとに新居を構えた。そした新写実主義が到来した。修行時代をパリで過ごすのも一方法だ。しかし自分の絵を描かねばならぬときには、パリから去り、田舎に住まって仕事をせねばならぬ。フランスの偉大な画家は皆田舎で真実の仕事をした。田舎にただ一人で仕事をするためには、強固な精神と、卓越した技量を持たねばならないが、なお自分ひとりと、パリの多くの奴らと喧嘩しても、負けないゲンコツを持つ必要がある。」