ヴラマンクが佐伯祐三に投げつけたとされるその有名な言葉の、そのアカデミズムとはどのようなものかを、佐伯と同時代の画家小出楢重の言葉を通じて考察したい。
以下≪≫内で引用するのは小出楢重著作物文中の言葉である。
≪絵には技法が必ずある。しかしながら技法を少しも知らずにでも絵は描ける。技法の全くない絵というものは子供の絵である。それも、うんと小さな子供の絵だ。大人でも今までかつて一度も絵というものを描いた事のない人が無理矢理に絵をかかされると、ちょっと子供と同じ程度のいわゆる自由画を描く。これが本当の技法なき絵である。しかしながらその子供もやがて人心がつき初める頃には、もう智恵と慾が付いてくるので、何かの技法を心から要求するようになってくる。自分勝手な自由画では承知が出来なくなってくるらしい。でたらめでは何んとなく恥かしいのだ。
大人でも何も知らぬ人が第一回目に描いた絵は先ず技法がないが第二回目にはすでに如何にしてという方法を考えるようになる。先ず人間の智恵は技法を要求するものである。
要するに相当の智恵付いた人間の作品はすべて何かの技法によってかかれているものである。昔も今も、古いものには古いらしい、新らしいものには新らしい、それ相応の技法が備わっている。絵に限らず、あらゆる芸術あるいはすべての芸事において技法のない芸事は殆(ほと)んどないといってよい。
しかしながら、偉い画家の描いたものや、古来神品(しんぴん)とも称されている作品のあるものには、全く技法も糞(くそ)も全く無視されたような作品があるものである。けれどもそれらはあらゆる技法が完全に作品の裏へ隠し込まれてしまった処のものであるので、隠し込まれたというよりも、むしろ、全く忘却されてしまったものであるという方が適当かも知れない。
ところで忘却するという事は知った事を忘却するのであって初めから何も知らない事を忘却する事は不可能である。
…中略…
あらゆる事を承知した後、忘却してしまって後本当の仕業が心のまま思ったままに出来るのではないかと思う。どうも昔からのすぐれた作品を見ると、多くその傾向が見えるようである。
ところで完全に忘却してしまう位いのものならば初めから智恵づかない方が軽便でいいともいえるが、もし自分の子供が二十歳に及んでなお寝小便をたれるという事があったら悲しむべき状態である。
…中略…
幸いにして画道においては正確な技法がなくとも早速生命に関する大事とはならないから安全であるが、しかし結果はそれ以上の悲劇となる事が多いと思う。
ところで技法の習得、練磨、研究も必要な事は正に人の智恵と同じく画家として必要ではあるけれども、あらゆる技法は芸術の終点でも目的でもない事である。
人が歩む事は何か目的があってそれへ到着しようとするために歩むので、これは不知不知(しらずしらず)の間に運動をしている訳だ。それで先ず用は足す事が出来るが、もし何々派、何々流の歩調にのみあまりに拘泥(こうでい)し過ぎると、その事ばかりに気を取られてとうとう徒(いたず)らに低廻するばかりとなる。
練習ばかりで飛ばぬ飛行機は退屈だ。飛ばぬが故に安全第一ではあるけれども。
ちょっと、豆腐を買いに行くにもワルツで行く女中があったとしたら随分うるさい事だろう。しかも豆腐を買う事を忘れて帰ったら阿呆な話である。
こんな阿呆な話も不思議なようだがこの芸術の世界において一番多く見受ける話である。
要するに技法は人間の智恵であり普通教育であり礼儀作法であり常識である。従ってこの事ばかり気にするものは小癪(こしゃく)に障(さわ)っていけない。といって智恵なき者は阿呆に過ぎない。
≫
以下≪≫内で引用するのは小出楢重著作物文中の言葉である。
≪絵には技法が必ずある。しかしながら技法を少しも知らずにでも絵は描ける。技法の全くない絵というものは子供の絵である。それも、うんと小さな子供の絵だ。大人でも今までかつて一度も絵というものを描いた事のない人が無理矢理に絵をかかされると、ちょっと子供と同じ程度のいわゆる自由画を描く。これが本当の技法なき絵である。しかしながらその子供もやがて人心がつき初める頃には、もう智恵と慾が付いてくるので、何かの技法を心から要求するようになってくる。自分勝手な自由画では承知が出来なくなってくるらしい。でたらめでは何んとなく恥かしいのだ。
大人でも何も知らぬ人が第一回目に描いた絵は先ず技法がないが第二回目にはすでに如何にしてという方法を考えるようになる。先ず人間の智恵は技法を要求するものである。
要するに相当の智恵付いた人間の作品はすべて何かの技法によってかかれているものである。昔も今も、古いものには古いらしい、新らしいものには新らしい、それ相応の技法が備わっている。絵に限らず、あらゆる芸術あるいはすべての芸事において技法のない芸事は殆(ほと)んどないといってよい。
しかしながら、偉い画家の描いたものや、古来神品(しんぴん)とも称されている作品のあるものには、全く技法も糞(くそ)も全く無視されたような作品があるものである。けれどもそれらはあらゆる技法が完全に作品の裏へ隠し込まれてしまった処のものであるので、隠し込まれたというよりも、むしろ、全く忘却されてしまったものであるという方が適当かも知れない。
ところで忘却するという事は知った事を忘却するのであって初めから何も知らない事を忘却する事は不可能である。
…中略…
あらゆる事を承知した後、忘却してしまって後本当の仕業が心のまま思ったままに出来るのではないかと思う。どうも昔からのすぐれた作品を見ると、多くその傾向が見えるようである。
ところで完全に忘却してしまう位いのものならば初めから智恵づかない方が軽便でいいともいえるが、もし自分の子供が二十歳に及んでなお寝小便をたれるという事があったら悲しむべき状態である。
…中略…
幸いにして画道においては正確な技法がなくとも早速生命に関する大事とはならないから安全であるが、しかし結果はそれ以上の悲劇となる事が多いと思う。
ところで技法の習得、練磨、研究も必要な事は正に人の智恵と同じく画家として必要ではあるけれども、あらゆる技法は芸術の終点でも目的でもない事である。
人が歩む事は何か目的があってそれへ到着しようとするために歩むので、これは不知不知(しらずしらず)の間に運動をしている訳だ。それで先ず用は足す事が出来るが、もし何々派、何々流の歩調にのみあまりに拘泥(こうでい)し過ぎると、その事ばかりに気を取られてとうとう徒(いたず)らに低廻するばかりとなる。
練習ばかりで飛ばぬ飛行機は退屈だ。飛ばぬが故に安全第一ではあるけれども。
ちょっと、豆腐を買いに行くにもワルツで行く女中があったとしたら随分うるさい事だろう。しかも豆腐を買う事を忘れて帰ったら阿呆な話である。
こんな阿呆な話も不思議なようだがこの芸術の世界において一番多く見受ける話である。
要するに技法は人間の智恵であり普通教育であり礼儀作法であり常識である。従ってこの事ばかり気にするものは小癪(こしゃく)に障(さわ)っていけない。といって智恵なき者は阿呆に過ぎない。
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