前回のデッサンの意義についての記述をまとめると
1.造形アカデミズムとしてのデッサン(基礎)
2.造形スキルとしてのデッサン(応用)
3.エスキース・下絵としてのデッサン
4.自由奔放な絵作りの「反面教師」としてのデッサン
ということになる。
今回はこれに
5.ウォーミング・アップとしてのデッサン
6.「修正力」養成としてのデッサン
と言う側面での記載となる。
暫くデッサンから遠ざかって、例えばバラの花を描く時、最初どうも線が硬く、調子が出ないことがある。何枚か描くうちだんだん慣れてきて、柔らかな線が引けてきて、絵も生きてくる。
スポーツなどそうだが、いきなりの本番は結果を伴わないことが多いばかりでなく、怪我をする場合もある。段々体が温まってきてから調子がでてくるものだ。絵も同じことが言えるのではないか。当然ビギナーに多いであるが、色ばかりでなく形も「ナマ」という絵を見かける。肩に力が入りすぎガチガチで絵に余裕がない。
フォルムを手のうちで捕らえているのではなくフォルムに「描かされて」いると言う印象である。一回の描写でこなれてないフォルムと、練りこまれ、反芻されたフォルムとは自ずから違ったものになろう。そういう意味でもデッサンの意義は大きい。
ところでこれも絵の難しさの一つなのだろうが、そのデッサンをやればその分タブローが上手くなるかといえばそうとも言い切れない場合がある。
上記1.の勉強のため研究所へ通っていた頃の話である。その研究所はシビアな実力主義で、しょっちゅうコンクールを行い優劣を争わせ、時にその結果に応じてクラス分けもしていた。「造形の厳しさ」をそういうプリミティヴなレベルで知らされたものである。
で、そのクラスで、デッサンはAクラスなのにタブローはCクラス、あるいはその逆という研究生が何人かいた。つまり。石膏デッサンは超上手いのにタブローはまるでダメというようなものである。これは理解に苦しんだ。勿論美大は両方クリアしないと合格できない。なんのためにデッサンをしてるのかわからない。
つまり、デッサンの意義がタブローに結びついていないのである。これは、絵具と言う素材の扱いの問題や教育の仕方や資質的なことも有ろうが、本人の意識の問題が大きいようだ。
「良いタブローを描くこと」、そのための方法論としてデッサンを位置づけるべきなのであろうが、画学生が、美大入試なら「そのためのものとしてのデッサン」を考えがちというのは考えられ得ることである。
そのことに関してもう一つ、例えば1.のデッサン、即ち造形アカデミズムが、何某かの技術的プログラミンング・マニアルのように、「自己完結」する硬直した価値体系であるなら、それを完璧に習得した者は、完成されてはいるが、全部同じ絵が出来てしまうことになる。
周知のごとく古典派の先達はそれが出来ている。出来ていなければそのタブローは成立しない。しかし、例えば、ダビンチ、ラファエロ、プッサン、デューラー、アングル、ブーグロー等が全く同じ条件で全く同じモティーフを描いたとしても全部違うものが出来るはずである。ちょっと美術史を知ってる人が見たらどの作品がどの作家のものか瞬時に識別できるだろう。
即ち彼らを彼らたらしめているのは、其処から先のオリジナルな造形世界の展開、才能・資質、造形思想から広く世界観・自然観・人間観・人生観に至る思想、その中にある創造者、表現者としての自我の「在よう」、そういうもの総てに係っているものである。
即ち「なまじデッサンをすれば個性が失われる」などというのは「神話」に過ぎず、むしろそうした、「作為」の次元で語れないものにこそ真の純粋な個性の在り処を感ずるのである。
別項で「色彩」に関して近代造形理論の「偏見」に触れたが、この個性も正にそうで、いつの日からか、特別なユニークさ、独自性、筆者流に言えば「ブタが空を飛ぶ」様なものを「個性」というようになった。一面それでも結構であるが、この種の単純な見方で個性を限定されてしまうと、件のごとき、厳格なアカデミズムを経たものへの視点や、そうした「深読み」に係る絵画の妙味と醍醐味が見落とされることになる。昨今「絵作り」においてその個性なるものを主張する傾向はゴマンとあっていささか飽食気味のみならず、その「作為」の氾濫に逆に「没個性」すら感じるのである。この時代、純粋でじっくり腰を据えて造形に取り組み、何某かのテーマを追求していると言う姿勢、そういう一歩も引かない造形思想のこそ真の個性というべきではないか。「驚き」ならアキバやディズニーランドにいくらでもあるのである。
ともかく、上記二例で明らかなことは、デッサンとは、タブローの価値を最終的に保証し決定づけるものではないが、縷々述べた趣旨によりタブローには重要な意義を持つものである。とりわけ、デッサンで身に付くものとして特に感じるのは、「修正力」であろう。
この修正力とは、読んで字のごとく、フォルムやヴァルールの狂い、不自然さやバランスの悪さ等を修正する能力のことである。これがないと、そうしたものに気づかないまま終わってしまう。
この欠如は造形の「甘さ」の一つとして感じる。相当の「ベテラン」にもまま見られる。気づかせるものとはやはりデッサンの修練によるものだ。よく昔の絵がつまらなく思えるようになってくるというのは、特にデッサンとしてやらなくてもタブローを描きつづけるうちに、そうしたデッサン的要素が身に付いてくるからだろう。
絵をみればその描き手が「デッサン」を知っているか否かがシビアに見て取れると言うのは事実だろう。