ところでこのような、「社会的病弊」とでも言うべき人格形成は事件として現れた若年世代に当てはまるだけのものだろうか?例えば、「ブログ」や「掲示板」と呼ばれるINコミニュティーにおいて、それと共通したいくつかの人格傾向を感じている。
 ネット世界は、発言するものの顔もわからず、住所や職業も知られず、匿名性で覆われ、したがって、現実とヴァーチャルの区別が付かない、自我を現実の中で位置づけて語れない者でも発言内容への責任を問われることもなく、いいたいことが言える、誠にその意味では気安さのあるものである。
 ことの真実や道理、あるいはある程度普遍性や客観性を有する、現に存在する価値体系について、それを否定したり、異議を唱えるというのは、それ自体結構なことだし、自由であるが、それにはそれができるだけの自我に係る根拠や論理性など相当なエネルギーを必要とする。しかしそういうものがなくても、そういう手続きを踏まずにいきなりホンネを語れる。恥も外聞もなく、妄言暴言も、差別用語も言いたい放題という世界となる。

 このカテゴで言えば、絵画芸術、造形を知らない者がその世界で全く通用しない、あるいは枝葉末節でどうでもよいよぷなこともっともらしく語る、邪道をゴリ押しする、全く普遍性のないボキャブラリーで読解不能、誰に何を語っているのかサッパリわからない「芸術論」もある。即ち、趣味的、感覚的、独善的、夢想的、スローガン主義的、スケジュール主義的等凡そ前記のようなことの真実や道理、本道などにとても通用するものではない、論理性を著しく欠いた、デタラメ、無茶苦茶に近い、信じられないようなことを平気で語るのみならず、反対のための反対、言いっ放し、責任あるアンチテーゼがない。これらは芸術・文化に限ったことではない。政治、経済、法律、歴史、社会問題等広範囲のジャンルに見られる。

 あるいは、与えられた話題性や既成の「価値体系」を突っつくだけで、自分から積極的に問題提起をしたり、何某かのテーマを追求する姿勢を見せたり、自分自身の思想や作品を表示したりはできない。当然創造力も想像力も、センスも、ユーモア感覚すらない。知識は半端、没個性。時にファジーで事なかれ主義でどっちつかずの安全な道を選ぶ。一方で、自己の体温と「温度差のない日常性」だけは守りたい、ダメなりに存在できる自我をめぐる諸々の状況には頑迷に保守的で、それを認知しない、不都合なものには逆切れし、真っ向勝負できないので搦め手から攻撃をしてくる。

 これらは結局は当人らの無知、無能、怠惰、未熟、鈍感、時にコンプレックスに起因するものだが、それら自体は当所段階では誰でもあるもので恥でもなんでもないのだが、問題はそういう自我の備わざるところや至らざるところや限界を克服しようとする自己啓発の意思を持たない、頑迷で自己満足な自我保守性により、ネット世界に単なる、「捌け口」、「受け皿」、「駆け込み寺」的性格を持ち込もうとする姿勢である。
  例え異なる意見でも、寄って立つその立場を明らかに、論理性のある代案のようなものを示したならそれは主体性ある「敵」として評価できよう。しかしこうした、足を引っ張り、混乱を持ち込むだけのものは、冒頭に述べた「社会的病弊」のネット版というべきものだろう。このような病弊を一掃しない限りネット世界が文化としてのリアリティーを持つことはできないだろう。

 かつての日本もヴァーチャルであった。八紘一宇や大和男(やまとおのこ)(サムラジャパンだ!)等戦争に負けたとたん一朝にしてかなぐり捨てるような幻想を吹聴した、現実を見れない、意地だけのスローガン主義のエシタブリッシュと、右向け右、全体進め!と管理されやすい衆愚が、ヴァーチャル国家を築きこの国を破滅に瀕しさせたのである。 覚醒していたのはごく一部の文化・芸術だけである。「現実には疎いのが芸術家」などというのは無能で責任回避の方便に過ぎない。近代や現代の先達で、例えばどんな幻想的な作品を描く者であっても、現実に対しては決して曇った目を持っていなかったものは多い。
 創造の主体たるものが、自ら置かれた現実に、逃避的でない覚醒した精神を持って対峙するというのは、その創造が純粋であればあるほど必要なことであろう。
 純粋と不純を見極め得ずして純が語れるはずがない。本道を知らずして異端は主張できない。「古いもの」を究めなければ何が新しいかも気づかない。つまり、ことの真実や高い理想を求める創造者はヴァーチャルであってはならないのである。