一体コローは何種類の緑を使っているのか?これを本格的に追究するためにはなお相当数の模写が必要だろう。しかし大よそのその色はどうやって出すかということと、その「緑」が、透かし光や巧みなグラデーションの処理法と相俟って、あの「銀灰色」と呼ばれる色彩に繋がり、独自の絵画空間を醸し出していることなどは、時間はかかったが、理屈ではなく実感した観がある。さらにもう一つ、あの巧みな「締めるところは締める」と「抜くところは抜く」のメリハリ、この筆遣いをものにしなければコローの造形性を「制圧」したとは言えまい。
この適度の力の配分が画面の窮屈さや伸び切ったような限界感を感じさせず、伸びやかで詩情溢れる世界に繋がっているのだ。
前回の「牧歌的な踊り」はかなり現物を忠実に追ったが、今回のは広範囲にそういうコローの気ままな筆跡が縦横しているので、細部までの肉薄は困難。前記のメリハリを主眼点に雰囲気把握を心がけた。
大事なことはこういうシチュエーションにであった時、自分はいつでもこう言う絵が描けるということより、そういう際は自分の絵はどうなるかと言うことだろう。
いずれにしろコローの模写は例の「モルトフォンテーヌの想い出」で閉めることとなろう。