先ず既出の拙文を援用する。
≪ある種の宗教や哲学には『無為』と『有為』と言う二つの一見相矛盾する概念がある。無為とは「永遠」、「絶対」など『変わらない』ものを指し、有為とは反対に『諸行無常」、「万物流転」の常に変化し続けるものを指す。
この互いに違背するようなものが何ゆえ併存しているのであろうか?
これを私なりに解釈すれば説明がつくような気がする。つまりこれは、宇宙、人間、総て森羅万象に係る「二元論」である。
この二元論に立って「変わらない」ものを「本質」、「変わるもの」を「現象」とした場合、人間が否応なしに位置づけられる時空とは、国家、政治・経済・法体系、生産社会、テクノロジー、マスメディア等総て「現象」であり、その人間も家族を最小単位とする、「社会的存在」と言う面において「現象」である。
しかし科学に「原理」があるように人間もそのような「社会的存在」とは別の、その社会的存在面を剥ぎ取られた際の「原存在」と言うべき側面がある。その人間とは相変わらず弱く愚かで迷い多く、老・病・死の不安に怯え、その不安定な存在と肉体の限界を突きつけられ、厄介な人生を背負い、泣いたり叫んだり右往左往しているではないか。
モーゼの十戒、キリスト教義、イスラム教義、仏教哲学等はも今も数千年前と変わらず現代に適用されているのは、その証左であろう。科学の真理がそれらを修正させたのは「ビッグバン宇宙」と「進化論」ぐらいでは?
因みに、時代は変わる、だから芸術も変わると言う話があるがこれは誤り。芸術において変っているのはその「表現形式」であってメッセージの本質は変わらない。なぜなら芸術が向き合うべき「人間」が左様に変わらないからである。
つまり芸術とは、「現象」から取材する場合であっても「本質に」向け発信するものだ。そうでない、時代に諂い、時流を追い、他人の評価の中でしか生きらず、既成の体制や「価値」体系にどう適応していくかしか考えないものはやがて時代に取り残され行き場を失うだろう。
そう言うものは創造者本人にとっても意味はない。なぜなら「自分の創造」とは、創造の主体たる自我がその背負ってきた人生と絡めてどうで、その自我が位置づけられている時間・空間(現在・過去・未来、社会・国・世界・宇宙)への認識がどうで、その時空との関わり方がどうだから自分の創造行為はどうあるべきか、即ち、「自我の存在について自ら出す回答の形式」だからである。。自我が出す形式である以上当然それは自由である。その形式に類型はない。あるとしたらそれはただ「絵画」ということである。ところが、一部にこの「自由」とか「絵画」と言うものの何たるかを履き違えた論調がある。
…中略…
「ブタが空を飛ぶようなもの」が「個性」なのではない。チューブから出したての原色が綺麗な色彩なのではない。わけの分からないフォルムの組み合わせがイマジネーションをそそるのではない。意味ありげな表情やポーズをとらせ、それらしい画題をつければ「芸術的」になるわけではない。そんな単純なものなら苦労はない。
画家はそれぞれの資質や才能、思想、嗜好に従い、古典主義系、リアリズム系、印象派系、野獣派、立体派、幻想系、ナイーフ系、シュール系、ポップ系、抽象主義、コンテンポラリー系etc.それぞれの画風、傾向において、それぞれのテーマを希求しそれぞれの思想を表現してきたのである。当然絵画的価値の希薄なものはそれなりに排除される。
先の「現象」が提示するものは「事実」であって「真実」ではない。「社会的存在」としての人間と「原存在」としての人間は違う。絵画が希求すべき価値とはあくまで「絵画的価値」であり、商業主義ベースの「マスコミ文化価値」や、テクノロジーによる「快楽趣味」とは一線を画す。市民的趣味・娯楽レベルのみで語られるものではない。
先達は人生を賭け、生活を犠牲にし、悪戦苦闘しながらこような価値を希求したのである。
こうしたことを識別できず、したがって絵画の何たるかの基本的なこを知らず、故に自己のメティエに誇りも、思想も、高い理想も持てない者は、自ら創造者を名乗ることはやめた方がよい。貧乏するだけ損するというものだ。≫
(つづく)
≪ある種の宗教や哲学には『無為』と『有為』と言う二つの一見相矛盾する概念がある。無為とは「永遠」、「絶対」など『変わらない』ものを指し、有為とは反対に『諸行無常」、「万物流転」の常に変化し続けるものを指す。
この互いに違背するようなものが何ゆえ併存しているのであろうか?
これを私なりに解釈すれば説明がつくような気がする。つまりこれは、宇宙、人間、総て森羅万象に係る「二元論」である。
この二元論に立って「変わらない」ものを「本質」、「変わるもの」を「現象」とした場合、人間が否応なしに位置づけられる時空とは、国家、政治・経済・法体系、生産社会、テクノロジー、マスメディア等総て「現象」であり、その人間も家族を最小単位とする、「社会的存在」と言う面において「現象」である。
しかし科学に「原理」があるように人間もそのような「社会的存在」とは別の、その社会的存在面を剥ぎ取られた際の「原存在」と言うべき側面がある。その人間とは相変わらず弱く愚かで迷い多く、老・病・死の不安に怯え、その不安定な存在と肉体の限界を突きつけられ、厄介な人生を背負い、泣いたり叫んだり右往左往しているではないか。
モーゼの十戒、キリスト教義、イスラム教義、仏教哲学等はも今も数千年前と変わらず現代に適用されているのは、その証左であろう。科学の真理がそれらを修正させたのは「ビッグバン宇宙」と「進化論」ぐらいでは?
因みに、時代は変わる、だから芸術も変わると言う話があるがこれは誤り。芸術において変っているのはその「表現形式」であってメッセージの本質は変わらない。なぜなら芸術が向き合うべき「人間」が左様に変わらないからである。
つまり芸術とは、「現象」から取材する場合であっても「本質に」向け発信するものだ。そうでない、時代に諂い、時流を追い、他人の評価の中でしか生きらず、既成の体制や「価値」体系にどう適応していくかしか考えないものはやがて時代に取り残され行き場を失うだろう。
そう言うものは創造者本人にとっても意味はない。なぜなら「自分の創造」とは、創造の主体たる自我がその背負ってきた人生と絡めてどうで、その自我が位置づけられている時間・空間(現在・過去・未来、社会・国・世界・宇宙)への認識がどうで、その時空との関わり方がどうだから自分の創造行為はどうあるべきか、即ち、「自我の存在について自ら出す回答の形式」だからである。。自我が出す形式である以上当然それは自由である。その形式に類型はない。あるとしたらそれはただ「絵画」ということである。ところが、一部にこの「自由」とか「絵画」と言うものの何たるかを履き違えた論調がある。
…中略…
「ブタが空を飛ぶようなもの」が「個性」なのではない。チューブから出したての原色が綺麗な色彩なのではない。わけの分からないフォルムの組み合わせがイマジネーションをそそるのではない。意味ありげな表情やポーズをとらせ、それらしい画題をつければ「芸術的」になるわけではない。そんな単純なものなら苦労はない。
画家はそれぞれの資質や才能、思想、嗜好に従い、古典主義系、リアリズム系、印象派系、野獣派、立体派、幻想系、ナイーフ系、シュール系、ポップ系、抽象主義、コンテンポラリー系etc.それぞれの画風、傾向において、それぞれのテーマを希求しそれぞれの思想を表現してきたのである。当然絵画的価値の希薄なものはそれなりに排除される。
先の「現象」が提示するものは「事実」であって「真実」ではない。「社会的存在」としての人間と「原存在」としての人間は違う。絵画が希求すべき価値とはあくまで「絵画的価値」であり、商業主義ベースの「マスコミ文化価値」や、テクノロジーによる「快楽趣味」とは一線を画す。市民的趣味・娯楽レベルのみで語られるものではない。
先達は人生を賭け、生活を犠牲にし、悪戦苦闘しながらこような価値を希求したのである。
こうしたことを識別できず、したがって絵画の何たるかの基本的なこを知らず、故に自己のメティエに誇りも、思想も、高い理想も持てない者は、自ら創造者を名乗ることはやめた方がよい。貧乏するだけ損するというものだ。≫
(つづく)