フェルメールの代表作といえば≪牛乳を注ぐ女≫ 、≪天文学者≫、小品だがもっともポピュラーな≪真珠の耳飾りの少女≫、そして件の≪絵画芸術≫だろう。その≪絵画芸術≫不在の「フェルーメール」展など私には牛肉の入っていない牛丼のように思えた。つまり、牛丼の香りだけはするのであるが。
フェルメールの魅力はなんといってもあの、左上から指す柔らかい光に浮かび上がる愛らしい空間に展開する小さなドラマ、まるでカメラオブスキュア(小学校の工作で作ったことがある「針穴写真機」のようなもので、当時流行っていた)の中に迷い込みたくなるような心持にさせられるというところにあるように思える。
フェルメールが日本人に人気があると言うのは、他の古典絵画があまりに、壮大で優雅でドラマティックに、人生だ芸術だと大上段に問いかけてくるのに対して、フェルメールのは日常的、生活描写的、それが日本人特有のシリアスさを嫌い、せこい、事なかれ主義の、小市民的保守主義に……まぁ、そこまで貶める必要は無いかかもしれないが、ともかく確認されているフェルメールの作品は40点にも満たない少数であるが、そのほとんどが上記のような舞台装置にある。
それは勿論デルフト近辺に限らず当時流行っていた透視図法や光学処理など物理的概念の絵画への導入とも関連するが、あのような特定の背景設定にこだわり続けたという例もそうはない。
ところで、フェルメールに関する本は内外幾つか出版されているし、今回のカタログにも内外美術史学研畑の者らにより、フェルメールに関しいろいろな分析や解釈がなされている。絵画芸術は元々科学的真理を求めるものでないので、それはそれで面白いし結構なことなのだが、観るものはそうした外部情報に拘泥されることなく、現に作品から自我が感じ、解釈した認識を正直に述べればよい。まして自ら描くものとして最大の関心事はその造形性の如何であり、それと外部情報との齟齬はなんら畏るに足らず。
その意味で言うなら、今回「ピンチヒッター」の≪手紙を描く婦人と召使≫のみがフェルメールらしい無難な作品で、≪マルタとマリアの家のキリスト≫もまずまず完成度はあったが、他にいくらでも見かけるテーマと画風で、あとは他の世界中に散らばっているフェルメール作品と比しても「後塵を拝する」ものと私には思えた。
私も「俺でも描けるB,Cクラス」と高言した以上その根拠を述べる要を感じた次第。
先ず再三言っているが、古典絵画は「オール オア ナッシング」、一つでも破調やおかしなところがあると全部ダメ。絵作りや色彩でゴマカシが気かないからである。これが古典系の怖さだ。どんな巨匠といえどもこの摂理は変わらない。表に出てない失敗作はゴマンとある。
「人形は顔が命」とは≪久月≫の雛人形のキャッチコピーだが、古典絵画においても表情の有りようはその絵画の死活問題だ。あのモナリザでさえ口元や目じりにコンマ何ミリの違いが出たらあのような世界遺産的評価を受けるものになったかどうかわからないのである。
先ず今回、カタログやポスターでメインとして取り上げてられている≪ワイングラスをもつ娘≫だが、私にはフェルメールの作品で一、二を争うくらいバランスの悪い絵に思える。先ず左側の内に開かれた飾り窓と娘の右上背景の壁の空間と「粗密」のバランスが悪い。試みに飾り窓を手でかくしたら余ほど落ちついた画面になる。フェルメールは同じ構成の絵で壁に飾った絵を換えたり無くしたりしている。そういう融通が利くなら飾り窓を撤去した上、あの絵はもっと右にかつ大き目の絵にして左側の空間を空けるべきではないか。
事実フェルメールは多くの作品いおいて、左上、即ち窓側、光が差し込んでくる側の空間を広く取るような構成をして画面に安定性を与えているのであるが、この作品だけがそういう間の取り方に失敗しているように思える。
それと「古典絵画は顔が命」で言えば、表情が悪すぎる。あの娘の表情は「正気」の人間の表情ではない。左の男もスケベな変態のようだ。一部評論にある、この男が「俗」や「卑」の象徴であるなら娘の顔はそれを拒絶するようなものであるべきだろう。ひざ上の左手も大きすぎて男の手のようだ。表情といえば≪リュートを調弦している少女≫の顔も調弦している顔ではない。顔色も生気のない病人か死人のそれのようだ。いずれも妙な表情が出すぎで優美さや品性を欠く。
≪ヴァージナルの前に座る若い女≫古典絵画としては未完成。顔からコスチュームに包まれたボディーの量感、総て描き込みが足りない。
それとこれはフェルメールに限らないが、画面が小さめということもあるが、人物のトーン付けにグラシにたより過ぎたのか全体にボケていて立体感もあまりない。
これらは重箱の隅をつついたようなことを言ってるわけではなく、専門に造形実技の修練をした人、美術史を勉強した人なら同様の感慨を持つのではないかと思う。安易に既成の世評を受け入れるだけが絵画を愛するものの姿勢ではないはずだ。
フェルメールの魅力はなんといってもあの、左上から指す柔らかい光に浮かび上がる愛らしい空間に展開する小さなドラマ、まるでカメラオブスキュア(小学校の工作で作ったことがある「針穴写真機」のようなもので、当時流行っていた)の中に迷い込みたくなるような心持にさせられるというところにあるように思える。
フェルメールが日本人に人気があると言うのは、他の古典絵画があまりに、壮大で優雅でドラマティックに、人生だ芸術だと大上段に問いかけてくるのに対して、フェルメールのは日常的、生活描写的、それが日本人特有のシリアスさを嫌い、せこい、事なかれ主義の、小市民的保守主義に……まぁ、そこまで貶める必要は無いかかもしれないが、ともかく確認されているフェルメールの作品は40点にも満たない少数であるが、そのほとんどが上記のような舞台装置にある。
それは勿論デルフト近辺に限らず当時流行っていた透視図法や光学処理など物理的概念の絵画への導入とも関連するが、あのような特定の背景設定にこだわり続けたという例もそうはない。
ところで、フェルメールに関する本は内外幾つか出版されているし、今回のカタログにも内外美術史学研畑の者らにより、フェルメールに関しいろいろな分析や解釈がなされている。絵画芸術は元々科学的真理を求めるものでないので、それはそれで面白いし結構なことなのだが、観るものはそうした外部情報に拘泥されることなく、現に作品から自我が感じ、解釈した認識を正直に述べればよい。まして自ら描くものとして最大の関心事はその造形性の如何であり、それと外部情報との齟齬はなんら畏るに足らず。
その意味で言うなら、今回「ピンチヒッター」の≪手紙を描く婦人と召使≫のみがフェルメールらしい無難な作品で、≪マルタとマリアの家のキリスト≫もまずまず完成度はあったが、他にいくらでも見かけるテーマと画風で、あとは他の世界中に散らばっているフェルメール作品と比しても「後塵を拝する」ものと私には思えた。
私も「俺でも描けるB,Cクラス」と高言した以上その根拠を述べる要を感じた次第。
先ず再三言っているが、古典絵画は「オール オア ナッシング」、一つでも破調やおかしなところがあると全部ダメ。絵作りや色彩でゴマカシが気かないからである。これが古典系の怖さだ。どんな巨匠といえどもこの摂理は変わらない。表に出てない失敗作はゴマンとある。
「人形は顔が命」とは≪久月≫の雛人形のキャッチコピーだが、古典絵画においても表情の有りようはその絵画の死活問題だ。あのモナリザでさえ口元や目じりにコンマ何ミリの違いが出たらあのような世界遺産的評価を受けるものになったかどうかわからないのである。
先ず今回、カタログやポスターでメインとして取り上げてられている≪ワイングラスをもつ娘≫だが、私にはフェルメールの作品で一、二を争うくらいバランスの悪い絵に思える。先ず左側の内に開かれた飾り窓と娘の右上背景の壁の空間と「粗密」のバランスが悪い。試みに飾り窓を手でかくしたら余ほど落ちついた画面になる。フェルメールは同じ構成の絵で壁に飾った絵を換えたり無くしたりしている。そういう融通が利くなら飾り窓を撤去した上、あの絵はもっと右にかつ大き目の絵にして左側の空間を空けるべきではないか。
事実フェルメールは多くの作品いおいて、左上、即ち窓側、光が差し込んでくる側の空間を広く取るような構成をして画面に安定性を与えているのであるが、この作品だけがそういう間の取り方に失敗しているように思える。
それと「古典絵画は顔が命」で言えば、表情が悪すぎる。あの娘の表情は「正気」の人間の表情ではない。左の男もスケベな変態のようだ。一部評論にある、この男が「俗」や「卑」の象徴であるなら娘の顔はそれを拒絶するようなものであるべきだろう。ひざ上の左手も大きすぎて男の手のようだ。表情といえば≪リュートを調弦している少女≫の顔も調弦している顔ではない。顔色も生気のない病人か死人のそれのようだ。いずれも妙な表情が出すぎで優美さや品性を欠く。
≪ヴァージナルの前に座る若い女≫古典絵画としては未完成。顔からコスチュームに包まれたボディーの量感、総て描き込みが足りない。
それとこれはフェルメールに限らないが、画面が小さめということもあるが、人物のトーン付けにグラシにたより過ぎたのか全体にボケていて立体感もあまりない。
これらは重箱の隅をつついたようなことを言ってるわけではなく、専門に造形実技の修練をした人、美術史を勉強した人なら同様の感慨を持つのではないかと思う。安易に既成の世評を受け入れるだけが絵画を愛するものの姿勢ではないはずだ。