私の親戚筋にクラッシクバレエ団経営者が何人かいる。その関係でよく観に行ったが、やはり舞台づくりが気になる。昔のパンフを見ると、小磯良平や鈴木信太郎などの専門の画家が舞台美術を担当していたという記録がある。その頃のは勿論知らない。その後朝倉摂や妹尾河童などの舞台美術の専門家に移ったようだが、最近は経費節減もあり、自前の「舞台美術部」でやるところもあるようだ。
同じ具象絵画でも「描く絵」と「作る絵」がある旨の仔細は別項でも述べたが、こう言う傾向は演劇でも舞踊の世界でもある。前者の「描く絵」系列では「額縁演劇」とか「ストーリーバレエ」とか、必ずしも「古典派」に限られないが、要するに判りやすい、庶民的なもの、後者系列はこれも前衛、モダン、コンテンポラリーという程でないにしても、「芸術性」優先でやや専門家風の、とっつきにくいものもある。
気づかされるのは、舞台美術も、後者系列ではデザイン的にも洒落た、洗練されたものが結構あるのに、前者系列において、手抜きなのか専門家がいないのか、あまり「名作」にお目にかかれないということだ。これは実は今日の本邦絵画にも言える。「絵づくり」はなかなか洗練されていて達者なのだが、スタイルに走り、ジックリ腰を落ち着けてリアリズムとかモティーフの本質のようなものと対峙している作品は少ない。
バレエに戻るが、某バレエ団の、古典中の古典「白鳥の湖」のセットで、それは「白鳥の湖」というより北欧のフィヨルドだかリアス式だか、高峻な山が切れ込んだようなところにポツンと「水っ気」があるという風情で、とても白鳥が飛来してきそうな湖とは思えないようなものがあった。しかも湖近辺で物語が展開しているという遠近感がなく、湖は歩いて数時間ぐらいはかかりそうな遠方にある。
白鳥が来るのはどういう場所か等の下調べ、物語と関連した背景への配慮、ロマンテイックな臨場感設定等まで神経は回らないのだろうか?これでは踊り手が可哀想だ。
どうせならもっとデフォルメした方がまだよいだろう。半端な絵画と同じく半端なのだ。
そうした「出来損ない」はともかく、「書割」と呼ばれる芝居の背景風景で、しっかりと描かれたものは芝居を生かすし、その観客側に立った視覚効果処理はまさに職人技といえるものだ。観客席のどこから見ても違和感のないようなパースペクティヴの処理は設計図段階で必要だろう。
「描く絵」に関連して、最近あまり見かけなくなったが、手描きの映画の看板の人物画には子供の頃からよく驚かされたものである。先ず役者そっくり、それが巨大な画面でのペンキか雨でも落ちない水性塗料で描かれている。
ところで、壁画を含むヨーロッパ古典絵画には実物より大きく描かれた巨大画面の絵があるが、そのリアリズムを逸脱していない技巧には驚かされるが、そうした修練された別格のスキルは別にして、絵画のアカデミックな原則に、人物画や静物画は実物より大きく描かないというのがある。これは、安定性を欠き見た目も悪いし、第一描きづらい。フォルムやトーンに必ず「ウソ」の部分ができるわけで、その分繋がりが悪くなるからである。因みにビギナーの描いた100号程度の大作で、画面のスケールにつられて、そのまま拡大した「巨大なりんご」などとなっているのをたまに見かけるが、これはその悪しき例である。
映画の看板は幻灯機を使って拡大転写すると言う技法があると聞いたが、その場合でもフォルムはなんとかなるがトーンの繋がりはむずかしいはず。ましてや油性であれ水性であれ、ボリュームのある塗料であるので細かなトーンはつけにくいと思うのであるが、エアブラシでもなくハッチング(ハッチングの応用は使われている)でもなく、立派にトーンが繋がっていて立体感も的確に捉えているのは、前記のヨーロッパの巨大画面的である。
顔ばかりに目が行くが、人物画に於いての真の描き手の力量がわかるのはその全体表現においてである。顔は陰影が作る凹凸の表現技法にパターンがあるのので何枚も描けば誰でもそれらしいものはできる。しかしその顔が首を介して胴とどう繋がっているか、その胴や手足の向きや捻り具合、力の入り具合、バランス等、これが所謂「デッサン」である。そのデッサンができてないので危なっかしい「人物画」を何枚も見た。
映画の看板で首から下が途中切れているものでも、そこから先の体の具合が安定的に想像できるものがある。これはデッサン力がなければできない。
因みに過日上野公園に出かけた際、階段のところに「似顔絵描き」がズラーッと店を出していた。彼らはおそらく本業は絵描きだろう。見本作品は顔だけだが、それらしい「自己主張」のようなものを感じた。
あまり見かけなくなった職人技の「描く絵」といえば大衆浴場の壁画がある。遠くに富士山があって、白い帆の船が白い波を立て、手前に松の枝が伸びた崖がある…と言った風景画だ。それが男女湯の仕切りを跨って描かれている。これはペンキ絵だ。熱い浴槽につかり、ホッとするような瞬間の心身に、あの平明で大らかでノンビリした風景が如何にマッチするものか!これは視覚と五感の関係を十分計算した先達の知恵というべきだろう。
これも仄聞した程度だが、あの職人は頭の中にインプットされている風景を写真など何も見ずに描くそうだが、日頃良い景色があればその都度現場でスケッチをするそうである。
さて絵画芸術にはそれとして希求すべき絵画的価値というものがある。技術的巧拙より、「ハート」の問題。自分自身で感じ、自分自身の手により自分自身の造形世界を目指すという意思。美意識、感情や思想の投影、ための諸々の表現性、造形性に係る技術論、方法論の切磋琢磨、純粋さや自由さ、取り組む姿勢、等々のものがどれだけ絵画的価値に結びつき、絵画空間で生きて展開しているか、この意義にベテランもビギナーもアマもプロもない。それだけで十分なのである。付属する諸々の結果はその要件ではないし無視すらできるものである。
書割、映画の看板、風呂屋の壁画等は、それぞれヴィジュアル・メディアとして立派な「メティエ」であるが、目的が本来の演目の背景効果、宣伝、内装等なのでその意義から絵画芸術とは一線を画すものといえる。しかし例えば、かつての横尾忠則のような、市井に溢れる商業主義の「俗悪」さを敢えてとりあげるような、和製ポップアートとして「芸術的」に捉えられる場合もある。
このように、絵画にもメティエにもそれぞれ修行体系、価値体系がある。どちらにしても、取材もせず、修行もせず、センチ単位の、写真やパソコンモニターからの転写作業でシコシコやる程度ではどうにもならない。その頑迷な自己執着には、「自己開発」ための残された時間が足りないということも確かにあるだろう。なまじことのなんたるかを知って絶望するより知らないままムクロのなった方が幸福ということもある。
同じ具象絵画でも「描く絵」と「作る絵」がある旨の仔細は別項でも述べたが、こう言う傾向は演劇でも舞踊の世界でもある。前者の「描く絵」系列では「額縁演劇」とか「ストーリーバレエ」とか、必ずしも「古典派」に限られないが、要するに判りやすい、庶民的なもの、後者系列はこれも前衛、モダン、コンテンポラリーという程でないにしても、「芸術性」優先でやや専門家風の、とっつきにくいものもある。
気づかされるのは、舞台美術も、後者系列ではデザイン的にも洒落た、洗練されたものが結構あるのに、前者系列において、手抜きなのか専門家がいないのか、あまり「名作」にお目にかかれないということだ。これは実は今日の本邦絵画にも言える。「絵づくり」はなかなか洗練されていて達者なのだが、スタイルに走り、ジックリ腰を落ち着けてリアリズムとかモティーフの本質のようなものと対峙している作品は少ない。
バレエに戻るが、某バレエ団の、古典中の古典「白鳥の湖」のセットで、それは「白鳥の湖」というより北欧のフィヨルドだかリアス式だか、高峻な山が切れ込んだようなところにポツンと「水っ気」があるという風情で、とても白鳥が飛来してきそうな湖とは思えないようなものがあった。しかも湖近辺で物語が展開しているという遠近感がなく、湖は歩いて数時間ぐらいはかかりそうな遠方にある。
白鳥が来るのはどういう場所か等の下調べ、物語と関連した背景への配慮、ロマンテイックな臨場感設定等まで神経は回らないのだろうか?これでは踊り手が可哀想だ。
どうせならもっとデフォルメした方がまだよいだろう。半端な絵画と同じく半端なのだ。
そうした「出来損ない」はともかく、「書割」と呼ばれる芝居の背景風景で、しっかりと描かれたものは芝居を生かすし、その観客側に立った視覚効果処理はまさに職人技といえるものだ。観客席のどこから見ても違和感のないようなパースペクティヴの処理は設計図段階で必要だろう。
「描く絵」に関連して、最近あまり見かけなくなったが、手描きの映画の看板の人物画には子供の頃からよく驚かされたものである。先ず役者そっくり、それが巨大な画面でのペンキか雨でも落ちない水性塗料で描かれている。
ところで、壁画を含むヨーロッパ古典絵画には実物より大きく描かれた巨大画面の絵があるが、そのリアリズムを逸脱していない技巧には驚かされるが、そうした修練された別格のスキルは別にして、絵画のアカデミックな原則に、人物画や静物画は実物より大きく描かないというのがある。これは、安定性を欠き見た目も悪いし、第一描きづらい。フォルムやトーンに必ず「ウソ」の部分ができるわけで、その分繋がりが悪くなるからである。因みにビギナーの描いた100号程度の大作で、画面のスケールにつられて、そのまま拡大した「巨大なりんご」などとなっているのをたまに見かけるが、これはその悪しき例である。
映画の看板は幻灯機を使って拡大転写すると言う技法があると聞いたが、その場合でもフォルムはなんとかなるがトーンの繋がりはむずかしいはず。ましてや油性であれ水性であれ、ボリュームのある塗料であるので細かなトーンはつけにくいと思うのであるが、エアブラシでもなくハッチング(ハッチングの応用は使われている)でもなく、立派にトーンが繋がっていて立体感も的確に捉えているのは、前記のヨーロッパの巨大画面的である。
顔ばかりに目が行くが、人物画に於いての真の描き手の力量がわかるのはその全体表現においてである。顔は陰影が作る凹凸の表現技法にパターンがあるのので何枚も描けば誰でもそれらしいものはできる。しかしその顔が首を介して胴とどう繋がっているか、その胴や手足の向きや捻り具合、力の入り具合、バランス等、これが所謂「デッサン」である。そのデッサンができてないので危なっかしい「人物画」を何枚も見た。
映画の看板で首から下が途中切れているものでも、そこから先の体の具合が安定的に想像できるものがある。これはデッサン力がなければできない。
因みに過日上野公園に出かけた際、階段のところに「似顔絵描き」がズラーッと店を出していた。彼らはおそらく本業は絵描きだろう。見本作品は顔だけだが、それらしい「自己主張」のようなものを感じた。
あまり見かけなくなった職人技の「描く絵」といえば大衆浴場の壁画がある。遠くに富士山があって、白い帆の船が白い波を立て、手前に松の枝が伸びた崖がある…と言った風景画だ。それが男女湯の仕切りを跨って描かれている。これはペンキ絵だ。熱い浴槽につかり、ホッとするような瞬間の心身に、あの平明で大らかでノンビリした風景が如何にマッチするものか!これは視覚と五感の関係を十分計算した先達の知恵というべきだろう。
これも仄聞した程度だが、あの職人は頭の中にインプットされている風景を写真など何も見ずに描くそうだが、日頃良い景色があればその都度現場でスケッチをするそうである。
さて絵画芸術にはそれとして希求すべき絵画的価値というものがある。技術的巧拙より、「ハート」の問題。自分自身で感じ、自分自身の手により自分自身の造形世界を目指すという意思。美意識、感情や思想の投影、ための諸々の表現性、造形性に係る技術論、方法論の切磋琢磨、純粋さや自由さ、取り組む姿勢、等々のものがどれだけ絵画的価値に結びつき、絵画空間で生きて展開しているか、この意義にベテランもビギナーもアマもプロもない。それだけで十分なのである。付属する諸々の結果はその要件ではないし無視すらできるものである。
書割、映画の看板、風呂屋の壁画等は、それぞれヴィジュアル・メディアとして立派な「メティエ」であるが、目的が本来の演目の背景効果、宣伝、内装等なのでその意義から絵画芸術とは一線を画すものといえる。しかし例えば、かつての横尾忠則のような、市井に溢れる商業主義の「俗悪」さを敢えてとりあげるような、和製ポップアートとして「芸術的」に捉えられる場合もある。
このように、絵画にもメティエにもそれぞれ修行体系、価値体系がある。どちらにしても、取材もせず、修行もせず、センチ単位の、写真やパソコンモニターからの転写作業でシコシコやる程度ではどうにもならない。その頑迷な自己執着には、「自己開発」ための残された時間が足りないということも確かにあるだろう。なまじことのなんたるかを知って絶望するより知らないままムクロのなった方が幸福ということもある。