なお仔細は省くが、「造形修行」に関し、上記アカデミズはリアリズム、古典主義傾向のみに係るものではない。印象派以降、現代美術に至るまで、その意義は関係してくる。これを否定する傾向も美術史の流れの中には当然あるが、そうした作家の意思に関わらず、結果的に優れた芸術とはそうした意義が読み取れるものである。造形修行に背き、「自由」や「感性」や「個性」を主張するのも結構だが、そうしたものを踏まえたものとそうでないものとは結果は厳然としているようだ。
 また相変わらず根強くある、「写真を見て描く」等の二次元転写作業は、絵画芸術の意義に照らし、造形修行の本道からは排除されているものであるということは別記事でも再三述べた通りである。

 さて、この「古典主義」の流れを革命的に打ち破ったのが≪印象派≫である。即ち印象派の美術史的意義の一つは対『古典主義」にある。
 厳格なフォルムやトーンは溶解し、その代わり色彩が前面に出る。しかしなお何かを『表現する』と言う意味においては古典主義系列を完全に逸脱するものではなく、その方法が違ったというべきだろう。

 その後モネの睡蓮シリーズや新印象派の点描主義を経て後期印象派のセザンヌ等に至り、フォルムや色彩はいっそう純化される。色彩、フォルム等先の造形要素そのものの固有の生命がいっそう解放されていくのである。セザンヌの「サントヴィクトワール」シリーズは文字通りその分水嶺となった。フォルムは構成の中に溶解し、構成は幾何学的フォルムに還元され、色彩はフォルムの枠から自由に飛び立つ。
 即ちフォルム、色彩はかつての「何かを表現する手段」としてではなくそのものの固有の生命が『目的」となったのである。

 この分かりやすい例がその後の≪抽象画≫である。抽象画は分からないとよく聞く。分からないのはその「意味」を読み取ろうとするからである。それは何も意味してない。「絵画芸術という意味そのもの」だからである。純化された構成やフォルム、色彩、マティエールを「感じれば」よい。
 このような絵画の立場の源流をセザンヌに見る。それ故セザンヌは「現代絵画の父」と呼ばれたりしているのである。

 以上を整理すると以下様になる。
〇構成、色、形などの造形要素がなにかの表現の「手段」であるもの⇒「表現的傾向」⇔「フォルム派」⇔「古典主義系列」⇔「描く絵」

〇上記造形要素そのものが「目的」であるもの⇒「造形的傾向」⇔「色彩派」⇔「後期印象派以降」⇔「作る絵」

 印象派の出現は上記分化のきっかけとなった一大エッポクであり、内容的には上記意義は折衷されたものとなる。また一部学研畑ではこれに「内的イメージ傾向」を加える場合があるが広義には「表現的」に属すと思われるのでここではそれに内包する。
 また後者の系列に属するものを「純粋芸術」と言う場合もあるが、創造の主体たる「人間」との関係においてそういい切れるものがあるかどうか議論がある。
 なお絵画芸術が希求すべきはあくまでも「絵画的価値であり、上記「表現的傾向」の行き過ぎたものは「文学的」同じく「造形的傾向」の行き過ぎたものは「工芸的」となり供に否定さるべきだろう。同様に「写真的」、「商業美術的」、「イラスト・漫画的」と言うのも一線を画すべきものである。

 繰り返すが上記区分とは、あくまで便宜上のものである。「=」を使ってないように、互いにまたがったり、双方の意義が読み取れたり、あるいは古典主義系でも「色彩」が語られたり、幅のあるものである。 また「何々派」、「何々主義」と言うのも後代第三者的につけられたものがほとんどで、作品傾向とは個々の画家がその都度自我の造形的欲求や価値を希求した結果に何某かの位置づけがされるものであり、例えば「古典主義」は手に負えない、「印象派」は向いてないので、「野獣派」で行こう!などという性質のものではないと言うことはいうまでもない。
 ましてや内的外的事情を問わず、描くべきモティーフを喪失した、モティーフが見つからないなどと言うことはあり得ず、あったとしたら「才能」がないということに他ならない。

(つづく)