Ψ筆者作 森シリーズ制作途中 油彩 (画像削除)
上 F30、下 同
印象派前の古典主義系絵画と印象派以降の絵画とは大きな造形上の違いがある。というより印象派がそれだけ革命的なものであったということだ。一言で言えばそれは「純絵画的」ということだろう。因みにその「純粋さ」という意味だが、その造形的分析は割愛するが、例えば我が美術史学科の同輩たちではルネッサンス、ラファエロ前派、マニエリズムなどを語るものは多かったが、印象派を専門に研究してる者は少なかったように思う。扱っても通史、比較論、時代背景、画家個人研究(これだけでも美術史学徒としては十分であるが)などで、「純絵画論」というものではない。
即ち印象派の「絵画的結論」は作品そのものの中に有り、それに尽きている。したがってそれを語ろうとすると純造形論ということになり、多少なりとも自ら実作を伴うものでないと限界があるからである。つまり「言葉にならない」のである。
ともかく、この純粋さは出始めのころは確かに衝撃的で魅力に溢れるものであった。
しかしその「色彩主義」が現代絵画の源流のような大きな力を持ち、具象絵画の「主流」としての常態が定着してからは、時として逆に古典主義絵画の方が「純造形的」に新鮮で、革命的に思える場合がある。
コローの風景画にもそのような意義を感じるのである。
別に今「コロー展」が開かれているからというわけではないが、そういうコローの作品の意義を改めて学ぶつもりで、私がコローの作品の中でも、否、美術史総体からも最高傑作の部類に属するのではないかと思う作品の模写をしている。上の二点のうち下の作品はその模写で使った絵具をそのままオリジナルの作品に使ったものだ。未だ描き始めだが、ものがものだけにワクワクしている。
冒頭述べた造形上の大きな違いの一つはこの色彩にある。古典主義系列の作品は「トーン」を「無彩色」を仲立ちとして繋ぐ。「無彩色」とは黒、白、そして無限の諧調を持つ灰色である。つまり、純粋な色味に黒だけ、あるいは白だけ、あるいは結果的に、各明度に応じた灰色を混ぜるということである。考えてみるとこれは「恐ろしい」ことだ。印象派的色彩の常識から言えば、「濁り」、「暗鬱さ」、「活気の無さ」、「退色」、「絵のつまらなさ」を意味する。したがってこのデメリットを克服するには相当の、フォルム、トーン、量感、質感、立体感、ヴァルール等の的確な把握が必要。即ちそれらに係る造形的修行はどうしても必要、色彩だけの問題ではないのだ。もちろんこれは風景画に限るものではない。
こうしたことに背を向けて「古典主義、…的、…系」は有り得ない。これがそれの難しさであり、「妙味」なのである。半端なものは「落選」が待っている。
上記のアカデミックな造形要素の風景画での展開で言えば、遠近感、広がり、奥行き、森や木立の質感、空の高さ、透明感、空気感、水の質感、透明感、光の処理…これらが自然の瑞々しさ、生命感、雄大さ、季節、時間、生活感等に繋がる。印象派風景画の源流をコローに見ると言う見方さえある。コローの「色彩」はそうしたものをベースにしてこそのものである。
※重複した制作途中の画像は削除
上 F30、下 同
印象派前の古典主義系絵画と印象派以降の絵画とは大きな造形上の違いがある。というより印象派がそれだけ革命的なものであったということだ。一言で言えばそれは「純絵画的」ということだろう。因みにその「純粋さ」という意味だが、その造形的分析は割愛するが、例えば我が美術史学科の同輩たちではルネッサンス、ラファエロ前派、マニエリズムなどを語るものは多かったが、印象派を専門に研究してる者は少なかったように思う。扱っても通史、比較論、時代背景、画家個人研究(これだけでも美術史学徒としては十分であるが)などで、「純絵画論」というものではない。
即ち印象派の「絵画的結論」は作品そのものの中に有り、それに尽きている。したがってそれを語ろうとすると純造形論ということになり、多少なりとも自ら実作を伴うものでないと限界があるからである。つまり「言葉にならない」のである。
ともかく、この純粋さは出始めのころは確かに衝撃的で魅力に溢れるものであった。
しかしその「色彩主義」が現代絵画の源流のような大きな力を持ち、具象絵画の「主流」としての常態が定着してからは、時として逆に古典主義絵画の方が「純造形的」に新鮮で、革命的に思える場合がある。
コローの風景画にもそのような意義を感じるのである。
別に今「コロー展」が開かれているからというわけではないが、そういうコローの作品の意義を改めて学ぶつもりで、私がコローの作品の中でも、否、美術史総体からも最高傑作の部類に属するのではないかと思う作品の模写をしている。上の二点のうち下の作品はその模写で使った絵具をそのままオリジナルの作品に使ったものだ。未だ描き始めだが、ものがものだけにワクワクしている。
冒頭述べた造形上の大きな違いの一つはこの色彩にある。古典主義系列の作品は「トーン」を「無彩色」を仲立ちとして繋ぐ。「無彩色」とは黒、白、そして無限の諧調を持つ灰色である。つまり、純粋な色味に黒だけ、あるいは白だけ、あるいは結果的に、各明度に応じた灰色を混ぜるということである。考えてみるとこれは「恐ろしい」ことだ。印象派的色彩の常識から言えば、「濁り」、「暗鬱さ」、「活気の無さ」、「退色」、「絵のつまらなさ」を意味する。したがってこのデメリットを克服するには相当の、フォルム、トーン、量感、質感、立体感、ヴァルール等の的確な把握が必要。即ちそれらに係る造形的修行はどうしても必要、色彩だけの問題ではないのだ。もちろんこれは風景画に限るものではない。
こうしたことに背を向けて「古典主義、…的、…系」は有り得ない。これがそれの難しさであり、「妙味」なのである。半端なものは「落選」が待っている。
上記のアカデミックな造形要素の風景画での展開で言えば、遠近感、広がり、奥行き、森や木立の質感、空の高さ、透明感、空気感、水の質感、透明感、光の処理…これらが自然の瑞々しさ、生命感、雄大さ、季節、時間、生活感等に繋がる。印象派風景画の源流をコローに見ると言う見方さえある。コローの「色彩」はそうしたものをベースにしてこそのものである。
※重複した制作途中の画像は削除