Ψ筆者作 制作途中「森シリーズ」 油彩 F20(画像削除)
コローの作品には必ずと言ってよいほど人物が登場し、そういう意味では「風景画」と言うより「情景画」と言った方がよいとは先に書いた通り。
画家が作る絵画空間とは何某かの自我を投影させたり、いろんな意味で理想化されたものであろうから、そういう「大事な」場面に登場させる人物も迂闊に、無神経になんでもよいというわけにはいくまい。そこで、ちょっと考えたのだが、コローは登場させる「人間」をどのように捉えていたのであろうか?
私の場合点景に人間を入れる場合は、どうしても造形上のポイントとして必要な場合で、かつ外国風景の場合が多い。そこに描く人間は当然『外国人』なので、言葉も通じないし、何を考えてるかも分からないのが好都合なのである。
つまり、同国人については、その人間の日頃の価値観、国民性、習性、言動等なまじ知りすぎているのでなかなか描き入れる気にはならないのである。
一方、これらの風景は、「東経何度北緯何度、何丁目何番地にある何とか公園」と言う具体的場所なのであるが、それ自体を描くという気はなく(そういう絵もあるが)、それはあくまで「モデル」で、絵画空間にイメージするところのものは別にある。
コローの風景画に点景として描き入れられる人物は、何か神話的な登場人物の様であったり、森のニンフの様であったり、農夫にしても目鼻立ちのはっきりしてない、ボヤけた輪郭だけのものであったりして、そういう意味では何か造形的に理想化された人間であり、「モティーフ」というより同様の意味の「モデル」に過ぎないような気がする。コローは人物画も描いているが、彼自身自分は『風景画家』であると言っているのはその一つの証左であろう。
さて件の公園には「飛ぶ宝石」と言われる青い鳥『カワセミ』が飛来し、日曜ともなるとそれを待つカメラの方列ができる。その何時間も待っているという「無償の行為」は純粋で幸福そうで愛すべきものとして映ずるのであるが、これも今一描く気はおきない。なぜなら「おっさん達」ばかり!
コローの作品には必ずと言ってよいほど人物が登場し、そういう意味では「風景画」と言うより「情景画」と言った方がよいとは先に書いた通り。
画家が作る絵画空間とは何某かの自我を投影させたり、いろんな意味で理想化されたものであろうから、そういう「大事な」場面に登場させる人物も迂闊に、無神経になんでもよいというわけにはいくまい。そこで、ちょっと考えたのだが、コローは登場させる「人間」をどのように捉えていたのであろうか?
私の場合点景に人間を入れる場合は、どうしても造形上のポイントとして必要な場合で、かつ外国風景の場合が多い。そこに描く人間は当然『外国人』なので、言葉も通じないし、何を考えてるかも分からないのが好都合なのである。
つまり、同国人については、その人間の日頃の価値観、国民性、習性、言動等なまじ知りすぎているのでなかなか描き入れる気にはならないのである。
一方、これらの風景は、「東経何度北緯何度、何丁目何番地にある何とか公園」と言う具体的場所なのであるが、それ自体を描くという気はなく(そういう絵もあるが)、それはあくまで「モデル」で、絵画空間にイメージするところのものは別にある。
コローの風景画に点景として描き入れられる人物は、何か神話的な登場人物の様であったり、森のニンフの様であったり、農夫にしても目鼻立ちのはっきりしてない、ボヤけた輪郭だけのものであったりして、そういう意味では何か造形的に理想化された人間であり、「モティーフ」というより同様の意味の「モデル」に過ぎないような気がする。コローは人物画も描いているが、彼自身自分は『風景画家』であると言っているのはその一つの証左であろう。
さて件の公園には「飛ぶ宝石」と言われる青い鳥『カワセミ』が飛来し、日曜ともなるとそれを待つカメラの方列ができる。その何時間も待っているという「無償の行為」は純粋で幸福そうで愛すべきものとして映ずるのであるが、これも今一描く気はおきない。なぜなら「おっさん達」ばかり!