どんなメティエ(職業、生業(なりわい)、職芸等)でそれに携わろうとするなら、ひとたびはその知識・技術習得に係るプログラムに従い、定められた価値体系を目途とし、資格要件が必要ならその具備に努め、先達の指導には謙虚に従うというのは常識というものであろう。それが嫌ならさっさとやめればよい。それを無視しての分けわからない身勝手な自己主張が通用する世界などどこにもない。
 「絵画」というメティエも全く同じである。ただ通常のものと違うのは、それだけではダメということ。勝負はそこから先で、そこから「自分のもの」を開花させなければならない。簡単に言ってしまえばその分大変なのだ。ましてや他のメティエと違い「労働の対価としての報酬」は当然には保証されない。 だから甘い、いい加減な動機と覚悟ではやってられない。そういうものに「食える、食えない」の概念を持ち出してその成否を語る輩は元々そのメティエには不向きなのだ。
  断言しても良い、事を自分の器に合わせ、安全地帯に身を置き、収まるところに収まり、確保すべきものは確保しておいて、芸術に深く携わろうなんてご都合主義は通用しない。無様に自分に甘い、「自我保守」人間には絶対に無理だ。
 環境だって「さあ、どうぞお好きなだけ絵を描いてください」などと手を広げているわけではない。相応の「戦い」も不可避である。

 その環境とは人間社会、その諸システムや「価値体系」、政治経済から地球レベルの問題まで繋がっている。それを「体制」とした場合その体制とは「反芸術」なものである。金もうけ、エスタブリッシュの利害得失、ウソ、ハッタリ、ご都合主義、権謀術策が渦巻く欲望と享楽の巷、一方芸術は「美」や「真実」を求めるもの。相容れられるはずがない。だから芸術に生きようとするものは「反体制」は必然のこと。創造の主体たる自我は好むと好まざるとに関わらず現実の時空に位置づけられる。だからその創造のため好ましからざる時空と対峙しなければならない。この対峙を「思想」と言うならその思想は「反体制」ならざるを得ないのだ。
 だからその意味でも「保守」などあり得ない。時代に迎合し、商業主義に飲み込まれ、マスコミの情報操作、世論誘導に踊らされるミーハーも、既存の体制への適応の方法論しか考えず、日常性の惰性に埋没した鈍感も「保守」である。こんな現状を良しとする精神の貧しい者になんの希望もないし、まともな創造ができるはずがない。
 因みに、この「反体制」を右や左という政治的概念として捉えたり、「僻み」と難癖をつけてきたり者達がいたが、最早その知恵足らずを嗤うのみである。こう言う連中が当該コミニュティーをウロついていること自体害悪だ。

 最後になるが、「絵とは好きなものを好きなように自由に純粋に描けばよいもの」などと、時としてまともな造形修行を避け、やたらに「個人の自由」、「個性」、「感性」、「色彩感覚」といったファジーな概念に逃げ込むことにより自己の未熟さ、非力さ、鈍感さ、怠惰等を隠蔽しようとする、「至らざる者・備わざる者」らに見られる傾向の絵画論がある。その根拠として子供や知的、精神障害者の絵の、純粋さや独創性などを持ち出す。
 間違ってはいけない。はじめにそれらありきではないのである。子供や山下清のような絵で語られる「自由、純粋、独創性」等とは、≪その作品が十分に「絵画的価値」に到達しているからこそ初めて語られる≫もの。

 言い換えるとよほどの鈍感か生来の右脳欠乏症でない限り多かれ少なかれそのような資質は誰にだってある。しかしその純粋さや自由とは絵画的価値のレベルに応じて語られるものであり、その価値が希薄なものはそれらが語られる「場」すら与えられることはない。即ちその限りでは、ただの「浮遊霊」に過ぎないのである。その絵画的価値に至る力量とは生来誰にも与えられているものではない。通常は相当の造形修行を経て得られるものだ。それゆえ、特別な造形修行を経ずしてそのような絵画的価値を有していると言う、まさにその部分について「驚き」であり「天才」とも呼ばれるのである。その意味で普通は絵画に乾坤一擲もイチかバチかもない。山下清やグランマ・モーゼスやアンリ・ルソーやヴァン・ゴッホはざらにでて来るものではない。 
 そもそも、何の努力もせず、ヘタでもなんでも、好きなものを好きなように描いて、自分の人生の意義にもなり、万人の共感を得られるならこんな楽なことはない。そういう方法があるなら是非教えて欲しいものである。