洋の東西を問わず「模写」と言う造形訓練がある。それは先達の様々な技法を追体験し、学び、将来の「自らの造形世界」の確立・展開に活かすという目途のために行う、二次元空間間の転写作業だが、これは大別すると二つの意義がある。一つはアカデミックな古典主義的意義でその場合の前提として数十倍、数百倍の三次元造形訓練を行う。
よく「モナリザ」とか古典絵画を模写したとする話を聞く。しかしそれらのほとんどはヴィジュアルな上っ面を舐めた程度で模写にすらなってない。現物と並べてみるとその違いは明らかなはずだ。リアリティーは言うに及ばず深みや味わい等、雲泥の差、赤子と大人、月とスッポン否それ以上だろう。
古典の時代は当然写真などない。自分の目と手で勝負する。だからこそそれは、カラー写真を貼り付けたような軽薄なものではない。「造形の根源から骨組み肉付けされたものだ」とは私が別途書いたフレーズ。その目は本当に輝き濡れている。皮膚の下には確かに血が流れ、その下には五臓六腑が詰め込まれた肉感のボリュームがある。立てば立った、座れば座った、捻れば捻ったで力の入ったところ、抜けてるところ明らかに描き分けられ、絹、木綿、皮革、の質感は全部違う。金属やガラスは本当に光り、冷たく透明である。
こうしたことは言うまでもなくフォルム、量感、質感、立体感、トーン、ヴァルール等アカデミックな造形要素の掌握なくしては得られない。そうした大所高所の基礎なければグリザイユだカマイユだグラシだスカンブルだハッチングだなどという具体的技法は何の意味もない。
つまり、古典の先達の絵はそのようにして出来ているので、先達の技法を学ぼうとするものは模写以前に自らそういう造形修行を行わなければならい。これが真の模写の前提である。こうした事を知らずあるいは背をむき、闇雲に写真を転写したり他人の絵を転写したりしても得られるのはただの「転写技術」以外の何ものでもないので「模写」を名乗ることすらできない。
一度やってみれば誰にも分かることだが、生きた形からナマのフォルムやトーンを見つけ出しそれを二次元空間に再現すると言うのに比べ、既に結果の出た二次元空間同士の転写作業など遥かに簡単である。 そして造形、創造行為とは勿論前者である。即ち、転写技術」の修行が造形修行であり、その手練手管が造形技術・職芸であると言うのは本末転倒も甚だしい。
そうは言っても、普通は模写の意義は前述した「先達の技法を追体験することで学び自我の造形に生かす」と言うところに置くので、何も古典派画家のレベルまで達する必要はないし、達せられるはずもないし、所詮は他人のものである。したがってそういう意味でも「自我の造形に生かす」という目的がなければ全くその意義はないものである。
もう一つの意義は厳格なアカデッミクな修行というのではなく、自分自身の絵画世界構築のための修行の一環として、色遣い、筆遣い、マティエール、絵作り等、先達の特定の技法を追体験すると言う趣旨の方に重点がおかれるもの。これは忠実な描写は余り意味はないし不可能な場合が多い。
別途でそれに類するものを表示する。
よく「モナリザ」とか古典絵画を模写したとする話を聞く。しかしそれらのほとんどはヴィジュアルな上っ面を舐めた程度で模写にすらなってない。現物と並べてみるとその違いは明らかなはずだ。リアリティーは言うに及ばず深みや味わい等、雲泥の差、赤子と大人、月とスッポン否それ以上だろう。
古典の時代は当然写真などない。自分の目と手で勝負する。だからこそそれは、カラー写真を貼り付けたような軽薄なものではない。「造形の根源から骨組み肉付けされたものだ」とは私が別途書いたフレーズ。その目は本当に輝き濡れている。皮膚の下には確かに血が流れ、その下には五臓六腑が詰め込まれた肉感のボリュームがある。立てば立った、座れば座った、捻れば捻ったで力の入ったところ、抜けてるところ明らかに描き分けられ、絹、木綿、皮革、の質感は全部違う。金属やガラスは本当に光り、冷たく透明である。
こうしたことは言うまでもなくフォルム、量感、質感、立体感、トーン、ヴァルール等アカデミックな造形要素の掌握なくしては得られない。そうした大所高所の基礎なければグリザイユだカマイユだグラシだスカンブルだハッチングだなどという具体的技法は何の意味もない。
つまり、古典の先達の絵はそのようにして出来ているので、先達の技法を学ぼうとするものは模写以前に自らそういう造形修行を行わなければならい。これが真の模写の前提である。こうした事を知らずあるいは背をむき、闇雲に写真を転写したり他人の絵を転写したりしても得られるのはただの「転写技術」以外の何ものでもないので「模写」を名乗ることすらできない。
一度やってみれば誰にも分かることだが、生きた形からナマのフォルムやトーンを見つけ出しそれを二次元空間に再現すると言うのに比べ、既に結果の出た二次元空間同士の転写作業など遥かに簡単である。 そして造形、創造行為とは勿論前者である。即ち、転写技術」の修行が造形修行であり、その手練手管が造形技術・職芸であると言うのは本末転倒も甚だしい。
そうは言っても、普通は模写の意義は前述した「先達の技法を追体験することで学び自我の造形に生かす」と言うところに置くので、何も古典派画家のレベルまで達する必要はないし、達せられるはずもないし、所詮は他人のものである。したがってそういう意味でも「自我の造形に生かす」という目的がなければ全くその意義はないものである。
もう一つの意義は厳格なアカデッミクな修行というのではなく、自分自身の絵画世界構築のための修行の一環として、色遣い、筆遣い、マティエール、絵作り等、先達の特定の技法を追体験すると言う趣旨の方に重点がおかれるもの。これは忠実な描写は余り意味はないし不可能な場合が多い。
別途でそれに類するものを表示する。