≪絵画を絵画足らしめる最低要件とは「自我」である。たとえどんなに技術的には稚拙でも、精一杯の自我をさらけ出すこと、そのオリジナリティーあって初めて話が始まる。本人の目で見て、感じ、解釈し、選択し、構成し、本人の様々な思想や人生を投影させ、本人の手を以って創造し、本人の絵画世界を展開させるというのが絵画の意義である。即ち自我が介在しない絵など絵ではない。≫
一体古今東西まともな人間で、凡そ絵画芸術の上記のような定義に異を唱える者がいるだろうか!?当たり前の話であろう。
その前にまた揚げ足をとられるといけないので一言しておけば、確かに美術史の一部にそういう意味での自我が介在しないものもあるが、これは結果的に自我が介在しないのではなく、自我を敢えて払拭させるという積極的意思、造形思想によるもであり別次元の芸術的フィールドの話である。
ところがこのような初歩中の初歩がまるでわかってない、あるいはわかってない振りして自分なりの「信仰」の方に事を合わせたがる連中が、IN上のコミニュティーで一定に存在する。面白いことに類は友を呼ぶというのか、そういう者にはそういう種類の人間が近づいたり、分かってないなりの評価を与えたりしてそれなりのコミニュティーが出来上がるのだ。
彼らは自己に都合の良い言語を断片的に切り貼りしながらの、ああ言えばこう言うと、その場しのぎの矛盾とご都合主義に満ちた「論理」を展開しているが、これには、先に述べたはIN上の「オタク・裏社会」的な忌まわしさを感じるのである。
それは往々にして、自らをあらかじめ一歩引いた「どうせ〇〇画家」という特別の冠詞をつけた「画家」であるとの姑息な「逃げ道」を設定する。その上でそういう自らに都合の悪い、正道を説くものを「芸術家ぶってる」とか「えらそうなことを言ってる」などの攻撃・中傷を繰り返しているのであるが、問題は彼らはそのの「〇〇画家」にすらなっていないということ、その身勝手でゴマカシの論理は本物の「〇〇画家」にも失礼であるということである。「〇〇画家」が本物であるならそれはそれなりに立派な「メティエ」(職芸)であり、ヴィジュアルメディアとして十分な意義のあるものであるが、それすらにもなってないということである。第一どうせ〇〇ならその〇〇のない正真正銘の絵画や画家について口出しすらできないだろうに。
他人の撮った風景写真や絵画で既に作品として出来上がっているものを「転写」して自分の作品であるかのように表示し、かつその「転写技術」の修行が造形修行であり、その手練手管が造形技術・職芸であるとうそぶいている者がある。
話は先の「自我」に重複するが、他人が創ったものとは、その人が「自分で感じ、解釈し、選択し、構成し、本人の技術を以って創造し、本人の様々な思想を投影させ、本人の世界を展開させた」ものである。当然それらに伴う修練や技術的労苦が内包されている。こうした手続きを一切自分でやらず、出来上がった結果だけを我がもののように外部に表示するのは、これは最早「剽窃」の世界だ。創造の最低要件である「自我」やオリジナリティや著作権にかかるモラルすらない。
なお関連する「模写」については別書庫の最新記事に仔細、「写真描き」の邪道については別項で書いたので割愛する。因みに某「写真描き」は、先ず絵画というメティエを「アマチュア」と「プロ」に分ける。次に売れているか売れてないか、一流か二流以下かに分ける。それぞれ目指すところも意義も違うらしい。作品といえば写真の転写、その手練手管が造形技法、書割の出来損ないのような絵を描いて絵を描いたつもりになって方々のブログでいろいろ口出ししているらしいい。その愚劣さ、頑迷さ、まさにコミニュティーの癌とすら言えよう。
一体古今東西まともな人間で、凡そ絵画芸術の上記のような定義に異を唱える者がいるだろうか!?当たり前の話であろう。
その前にまた揚げ足をとられるといけないので一言しておけば、確かに美術史の一部にそういう意味での自我が介在しないものもあるが、これは結果的に自我が介在しないのではなく、自我を敢えて払拭させるという積極的意思、造形思想によるもであり別次元の芸術的フィールドの話である。
ところがこのような初歩中の初歩がまるでわかってない、あるいはわかってない振りして自分なりの「信仰」の方に事を合わせたがる連中が、IN上のコミニュティーで一定に存在する。面白いことに類は友を呼ぶというのか、そういう者にはそういう種類の人間が近づいたり、分かってないなりの評価を与えたりしてそれなりのコミニュティーが出来上がるのだ。
彼らは自己に都合の良い言語を断片的に切り貼りしながらの、ああ言えばこう言うと、その場しのぎの矛盾とご都合主義に満ちた「論理」を展開しているが、これには、先に述べたはIN上の「オタク・裏社会」的な忌まわしさを感じるのである。
それは往々にして、自らをあらかじめ一歩引いた「どうせ〇〇画家」という特別の冠詞をつけた「画家」であるとの姑息な「逃げ道」を設定する。その上でそういう自らに都合の悪い、正道を説くものを「芸術家ぶってる」とか「えらそうなことを言ってる」などの攻撃・中傷を繰り返しているのであるが、問題は彼らはそのの「〇〇画家」にすらなっていないということ、その身勝手でゴマカシの論理は本物の「〇〇画家」にも失礼であるということである。「〇〇画家」が本物であるならそれはそれなりに立派な「メティエ」(職芸)であり、ヴィジュアルメディアとして十分な意義のあるものであるが、それすらにもなってないということである。第一どうせ〇〇ならその〇〇のない正真正銘の絵画や画家について口出しすらできないだろうに。
他人の撮った風景写真や絵画で既に作品として出来上がっているものを「転写」して自分の作品であるかのように表示し、かつその「転写技術」の修行が造形修行であり、その手練手管が造形技術・職芸であるとうそぶいている者がある。
話は先の「自我」に重複するが、他人が創ったものとは、その人が「自分で感じ、解釈し、選択し、構成し、本人の技術を以って創造し、本人の様々な思想を投影させ、本人の世界を展開させた」ものである。当然それらに伴う修練や技術的労苦が内包されている。こうした手続きを一切自分でやらず、出来上がった結果だけを我がもののように外部に表示するのは、これは最早「剽窃」の世界だ。創造の最低要件である「自我」やオリジナリティや著作権にかかるモラルすらない。
なお関連する「模写」については別書庫の最新記事に仔細、「写真描き」の邪道については別項で書いたので割愛する。因みに某「写真描き」は、先ず絵画というメティエを「アマチュア」と「プロ」に分ける。次に売れているか売れてないか、一流か二流以下かに分ける。それぞれ目指すところも意義も違うらしい。作品といえば写真の転写、その手練手管が造形技法、書割の出来損ないのような絵を描いて絵を描いたつもりになって方々のブログでいろいろ口出ししているらしいい。その愚劣さ、頑迷さ、まさにコミニュティーの癌とすら言えよう。