Ψ某ブログより転載
≪何はともあれ見通しがたったことは良かったです。たしかに山菜そばさんの言うとおり東南アジアは貧しさから来る一抹の不安要因があります。中国、インドにしても今高度成長時代の日本をなぞっているだけ。金が地位や権力をつくるメカニズムは日本よりすごい状況にあるでしょう。そういう意味では東南アジアに行くことは「過去の日本」に行くことかもしれない。政治経済を指標にする限り地球上にユートピアはないといってよいでしょう。
当初は慣れるのに時間がかかるかもしれません。しかし、現地の人に誠実に接し、真摯生活していれば「こういう人をだますことはできない」という風な受け入れ方を必ずされると思います。
それに、理想を希求する意思ある自我とそれを支えるウソのない「メティエ」(なりわい)があれば少なくてもその限りでは悔いなく生きられる。
この国は絶望的状況にあります。外はアメリカの属国、内は物欲と享楽の巷。軽薄で俗悪なマスコミ文化の情報操作と世論誘導、それらに踊らされ、批判精神も創造力も虚勢された衆愚を前にエスタブリッシュはやりたい放題。総保守翼賛に御用文化人、幇間評論家、金を支配する人間が一番「尊敬」される。しかしそういう人間もいつか気づく。尊敬されていたのは自分の人格ではなく、金や地位だったということに。そうなってからでは遅いのだが。
しかしそうしたものはそれなりに姿形がはっきりしているので対処もしやすい。我慢のならない、もっと警戒すべきはし、もっともらしい顔をして、いろいろ能書き垂れているが、いざとなったらそうした現実には何の力も働かせず、結果的にそうした現実を追認するような「実体保守」、自分自身の創造は表示できず、自分自身の思想は持たず、自分の言葉で語れずして、ファジーとニュートラルの安全地帯に逃げ込んで、逆に思想を語るものに牙をむくような「自我保守」、もろもろの「インチキ野郎」はこの掲示板の近くにもいくつか見られましたが、そういうものだと思います。「芸術の世界」も決してきれいなものではない。胡散臭さと俗臭紛々のきらい無しとしません。特にこの辺は創造の純粋さとの関係で重要です。
ともかく、未熟で鈍感で怠惰な自我は世界中どこへ行っても自分からは逃げられない。
創造することは「戦う」ことです。戦わないものは自己弁明やゴマカシの敗残者の論理しか語ることはできない。
結論を言えば自我と自我を取り巻く世界との関係はどこへ行っても同じだと思います。問題は「自我」に尽きる。tyanさんは戦ってきました。これからも戦うでしょう。私もそうです。それで十分です。現状において互いの事情によりtyanさんは去り私は残る。選択に悔いが残らなければよいと思います。 ≫
復信
≪…今、日本人は目先の1メートルしか見えていません。金を追い、金に追われる日本人には思想はありません。その先の霧の中をどうして進んでゆくのだろう。
クオ・ヴァディス・・・何処へ
≪何はともあれ見通しがたったことは良かったです。たしかに山菜そばさんの言うとおり東南アジアは貧しさから来る一抹の不安要因があります。中国、インドにしても今高度成長時代の日本をなぞっているだけ。金が地位や権力をつくるメカニズムは日本よりすごい状況にあるでしょう。そういう意味では東南アジアに行くことは「過去の日本」に行くことかもしれない。政治経済を指標にする限り地球上にユートピアはないといってよいでしょう。
当初は慣れるのに時間がかかるかもしれません。しかし、現地の人に誠実に接し、真摯生活していれば「こういう人をだますことはできない」という風な受け入れ方を必ずされると思います。
それに、理想を希求する意思ある自我とそれを支えるウソのない「メティエ」(なりわい)があれば少なくてもその限りでは悔いなく生きられる。
この国は絶望的状況にあります。外はアメリカの属国、内は物欲と享楽の巷。軽薄で俗悪なマスコミ文化の情報操作と世論誘導、それらに踊らされ、批判精神も創造力も虚勢された衆愚を前にエスタブリッシュはやりたい放題。総保守翼賛に御用文化人、幇間評論家、金を支配する人間が一番「尊敬」される。しかしそういう人間もいつか気づく。尊敬されていたのは自分の人格ではなく、金や地位だったということに。そうなってからでは遅いのだが。
しかしそうしたものはそれなりに姿形がはっきりしているので対処もしやすい。我慢のならない、もっと警戒すべきはし、もっともらしい顔をして、いろいろ能書き垂れているが、いざとなったらそうした現実には何の力も働かせず、結果的にそうした現実を追認するような「実体保守」、自分自身の創造は表示できず、自分自身の思想は持たず、自分の言葉で語れずして、ファジーとニュートラルの安全地帯に逃げ込んで、逆に思想を語るものに牙をむくような「自我保守」、もろもろの「インチキ野郎」はこの掲示板の近くにもいくつか見られましたが、そういうものだと思います。「芸術の世界」も決してきれいなものではない。胡散臭さと俗臭紛々のきらい無しとしません。特にこの辺は創造の純粋さとの関係で重要です。
ともかく、未熟で鈍感で怠惰な自我は世界中どこへ行っても自分からは逃げられない。
創造することは「戦う」ことです。戦わないものは自己弁明やゴマカシの敗残者の論理しか語ることはできない。
結論を言えば自我と自我を取り巻く世界との関係はどこへ行っても同じだと思います。問題は「自我」に尽きる。tyanさんは戦ってきました。これからも戦うでしょう。私もそうです。それで十分です。現状において互いの事情によりtyanさんは去り私は残る。選択に悔いが残らなければよいと思います。 ≫
復信
≪…今、日本人は目先の1メートルしか見えていません。金を追い、金に追われる日本人には思想はありません。その先の霧の中をどうして進んでゆくのだろう。
クオ・ヴァディス・・・何処へ