Ψ某ブログより抜粋

拙文
 ≪ちょっと曖昧な記憶で誤謬があるかもしれませんが、いつも思い出す言葉があります。文言も正確でないかもしれませんが、過日詩人の大岡信が朝日新聞の「折々の詩」で紹介していた唱で、「悲しみの入れる器の小さくて神は我母に耳しい給う」といったようなものです。
 解説によると「悲しみを入れる器」とは人間そのもの、「耳しい」とは差別用語ですが「つんぼ」のことです。つまりこの世とは悲しみに満ちている。それを総て見聞きし、受け入れるには人間は余りに矮小で脆弱すぎる。だから神様が我母の「耳を遠くしてくださった」。
 「ボケ」は高齢化社会の社会問題で、当事者はそれどころの話ではないですが、「老・病・死」の不安や恐怖をめぐり、いつもこれに何かちょっと救われる気がしてます。≫

返信1
≪インドのある地方では老衰しかけた方をガンジス川のそばに連れて行き老人の死という「幸せ」を祈るのです。人生は苦の世界であり,死は苦から逃れられる喜ばしいことだという宗教が昔からありました。四苦八苦、まさに人生はそのようなものかもしれません。
人間は悲しみの器とは、なんという深い言葉でしょう。僕たちの絵画に悲しみが底流になければそれこそ悲しい絵になりますね。喜びと悲しみはコインの裏表ですね。 ≫

返信2
≪人間の老いや死はAsuranoteさんの言う通り、人間への救いかもしれませんね。死により魂と肉体が離れる。これは魂の出発であり、ふるさとへの回帰なのかもしれません。相当の高齢者なら老いと死を結びつけて考えないかもしれません。いずれ訪れるできごととして、考えることもしないかもしれません。
 以前、テレビで見た韓国の映画で、父親が10歳ぐらいの娘に「おばあちゃんはあかちゃんになったんだよ」というせりふがとても印象に残っています。赤ん坊として生まれ赤ん坊に帰り死んで行く。自然の循環を感じます。… ≫

 余談 「自虐の詩」

≪友が皆我より偉く見ゆる日よ花を買いきて妻と親しむ≫と≪東海の小島の磯の白砂に我泣き濡れて蟹とたわむる≫(ともに啄木)を折衷して
≪友が皆我より偉く見ゆる日は我泣き濡れて蟹とたわむる≫なんて遊んでました。

 返信 

 あはは。じゃ、僕も遊びで
≪東海の小島の磯の白砂に我泣き濡れて金とたわむる≫
金は10円玉ですが。

ついで
≪東海の小島の磯の白砂に我啄木と泣きてたわむる≫(蟹が詠んだ歌)

もう一つついでのオリジナル
≪大海の金波銀波も知りもせで甲羅に合わせて穴を掘るのみ≫(俺のことじゃねーぞ!)

もう一つついで
≪柔肌の熱き血潮に触れもみでさみしからずや道を説く君≫(与謝野晶子)
反歌
≪柔肌の熱き血潮に触れたればセクハラ痴漢と反撃食いけり≫