YAHOO掲示板「どうしたらうまくかけるの」より転載
列挙された美術史上の流派は正に私のいう「表現形式」の変化です。
あらゆる芸術史とは一言で言ってしまえば、人間や自然、宇宙、物質、事象等の「不変のもの」に係る「解釈・分析」と「表現」の方法論の歴史と言ってよいのではないかと思っています。その方法論は当然時代と供に変化します。即ちそれが存在するためには解釈・表現「されるもの」が変わったのでは解釈等の変化もあり得ない。
コンセプチャルアートが出て来ましたがこれも宇宙の原理から自然、物質、森羅万象、色や形の造形要素等不変のものを時代性を背景にして解釈したものと言えます。
この「変わらない」ものこそを如何に的確に突くかが芸術の成否に関わってくるものと思います。それゆえその優れた芸術とは表現形式の差異を超え、時代(時間)を超え、国・地域(空間)を超えて「普遍的」なものになる。これも美意識や造形的価値体系の不変→普遍あればこそのものです。だから昔の優れた芸術は今も生きている。
言い換えると、そうした機能や意義を喪失したもの、可変のものを追っかけて自らも変わるものとは時代と供に消える「流行りもの」であり、空間的普遍性を持ち得ないものは特定地域に限定される属地文化であるということになります。
「人間」は数多の芸術が大きなテーマと向き合ってきたものです。そして私はその人間について≪相変わらず弱く愚かで迷い多く、老・病・死の不安に怯え、その不安定な存在と肉体の限界を突きつけられている≫「変わらないもの」と言いました。 シュールリアリズムとポップアートの名前も挙がってましたので私もその二つからからこの辺の「変わらないテーマ」と「変わる表現形式」の関係の例を次項で述べます。
「以前別なところで以下のような趣旨の事を書いた。
≪英語で「個人」のことをindividualと言う。これはdivide(分ける)に否定冠詞inがついたものである。つまり、個人とは宇宙の最小・最終単位で「もうこれ以上分けられない」という意味であったはず。
ところがそうではなかった。躁鬱症、分裂症や多重人格など純粋な精神病理学的分野に限られず、もっと日常的なことで、人間は自分を自分でコントロールできないとか、自分で判らない自分があるとかいうことがある。そういうことがフロイトなどの精神分析などにより証明された。つまりさらに分けられるものであったのである。ここに無意識、潜在意識、夢、オートマティズムに着目したシュールレアリズム芸術が生まれた。≫
≪「アメリカンポップアート」における、A・ウォホールのポートレート。R・リキテンシュタインのコミック・ストリップ、J・ジョーンズの星条旗、J・シーガルの人型…それらは本来の人間社会におけるそれらの意義や機能を剥ぎ取り、全く違う形相で芸術として現れている。そのことで見事にマスメデアやテクノロジーの発達で巨大にふくれあがった人間社会のド真中から裏返しに人間や芸術を浮かび上がらせている。
つまり従来の芸術は「精神」を詰め込まれ.「個」などという厄介なものをひきずり、泣いたり叫んだり右往左往する「人間」というものを中心に考えてきた。
しかしアメリカンポップは人間を人間の側からでなく、人間の属する.それ自体自立し増殖し、モンスターのように巨大化したは背景の中から捉える。人間すら金太郎飴のようであり、薄っぺらで大量生産大量消費される哀れなもとなる。≫
上記二例は私が先に述べた「弱い、愚かな…≪変わらない≫人間」についての時代を隔てた解釈の違いです。ともに不変なるものを捉えたゆえに、芸術として誠に力を有する「解釈の仕方」であると思います。
列挙された美術史上の流派は正に私のいう「表現形式」の変化です。
あらゆる芸術史とは一言で言ってしまえば、人間や自然、宇宙、物質、事象等の「不変のもの」に係る「解釈・分析」と「表現」の方法論の歴史と言ってよいのではないかと思っています。その方法論は当然時代と供に変化します。即ちそれが存在するためには解釈・表現「されるもの」が変わったのでは解釈等の変化もあり得ない。
コンセプチャルアートが出て来ましたがこれも宇宙の原理から自然、物質、森羅万象、色や形の造形要素等不変のものを時代性を背景にして解釈したものと言えます。
この「変わらない」ものこそを如何に的確に突くかが芸術の成否に関わってくるものと思います。それゆえその優れた芸術とは表現形式の差異を超え、時代(時間)を超え、国・地域(空間)を超えて「普遍的」なものになる。これも美意識や造形的価値体系の不変→普遍あればこそのものです。だから昔の優れた芸術は今も生きている。
言い換えると、そうした機能や意義を喪失したもの、可変のものを追っかけて自らも変わるものとは時代と供に消える「流行りもの」であり、空間的普遍性を持ち得ないものは特定地域に限定される属地文化であるということになります。
「人間」は数多の芸術が大きなテーマと向き合ってきたものです。そして私はその人間について≪相変わらず弱く愚かで迷い多く、老・病・死の不安に怯え、その不安定な存在と肉体の限界を突きつけられている≫「変わらないもの」と言いました。 シュールリアリズムとポップアートの名前も挙がってましたので私もその二つからからこの辺の「変わらないテーマ」と「変わる表現形式」の関係の例を次項で述べます。
「以前別なところで以下のような趣旨の事を書いた。
≪英語で「個人」のことをindividualと言う。これはdivide(分ける)に否定冠詞inがついたものである。つまり、個人とは宇宙の最小・最終単位で「もうこれ以上分けられない」という意味であったはず。
ところがそうではなかった。躁鬱症、分裂症や多重人格など純粋な精神病理学的分野に限られず、もっと日常的なことで、人間は自分を自分でコントロールできないとか、自分で判らない自分があるとかいうことがある。そういうことがフロイトなどの精神分析などにより証明された。つまりさらに分けられるものであったのである。ここに無意識、潜在意識、夢、オートマティズムに着目したシュールレアリズム芸術が生まれた。≫
≪「アメリカンポップアート」における、A・ウォホールのポートレート。R・リキテンシュタインのコミック・ストリップ、J・ジョーンズの星条旗、J・シーガルの人型…それらは本来の人間社会におけるそれらの意義や機能を剥ぎ取り、全く違う形相で芸術として現れている。そのことで見事にマスメデアやテクノロジーの発達で巨大にふくれあがった人間社会のド真中から裏返しに人間や芸術を浮かび上がらせている。
つまり従来の芸術は「精神」を詰め込まれ.「個」などという厄介なものをひきずり、泣いたり叫んだり右往左往する「人間」というものを中心に考えてきた。
しかしアメリカンポップは人間を人間の側からでなく、人間の属する.それ自体自立し増殖し、モンスターのように巨大化したは背景の中から捉える。人間すら金太郎飴のようであり、薄っぺらで大量生産大量消費される哀れなもとなる。≫
上記二例は私が先に述べた「弱い、愚かな…≪変わらない≫人間」についての時代を隔てた解釈の違いです。ともに不変なるものを捉えたゆえに、芸術として誠に力を有する「解釈の仕方」であると思います。