YAHOO掲示板「どうしたらうまくかけるの」から転載
 
 ある画家の問いかけ

≪ポルトガルから帰ってから日本の現実を考える時、毎日のように起きる殺人事件、それに親族殺人などおぞましいことばかり起きてそんなことにすら慣れっこになっていくのが自分であり周りの人たちです。政界はあいからわズ汚職、企業は悪質な金儲けのために嘘ばかりつく、学校に行けない子供たちも一杯、生活は真綿で締められるように苦しく、先に希望が見えないのです。抑圧は上に対する屈従と下にに対する抑圧を生み出し、すべての抑圧は最下層の人々に覆いかぶさっていく。反抗はないのかこの国民。闘えないのか日本人民。背骨が折られたような日本人を見ているとこの先も希望がないのです。
僕が今からメルヘンやギリシャ神話、などを絵に描きたくなるのは明らかに現実逃避なのだが、もしも現実に何かの光を見出すならばその光を描くだろうに。
「僕は本来はレアリストなのだが」と、そんなことを明け方のまどろみの中で考えています。
希望の光がない時代に芸術家たちはどんな絵や文学を創作したのだろか。≫

 それへの私の存念

≪(C型肝炎訴訟・非告知、社会保険庁不正・杜撰、防衛省汚職、その他諸々の事件を背景として)国民が政・官・財・マスコミの「エスタブリッシュ」にこれほど舐められ、バカにされている国は世界ではないでしょう。「総保守翼賛政治」の当然の帰結です
 しかしこれは≪衆愚≫が悪い!。「怒り」というものはないのか!?「豊かな物質、便利な暮らし、楽しい娯楽」で頭撫でられ、骨抜きにされ、バカのままで飼い馴らされているんじゃねーのか!…中略…本質とは真実です。あるべき姿です。それとまともに対峙しない。どこかでゴマカシながらでなきゃやっていけない。反則や邪道は必然の帰結です。こんな事はどこにも見られます。これがこの国の姿なら文化・芸術に携わるものは発言しなければならない。その創造行為がウソの上に立つことは許されないからです。だからこうした場でも発言する。それを私は「思想」と言ってます。
≫(拙ブログより抜粋)
 ところで時代は変わる、だから芸術も変わると言う話がありましたが、私はそうは思っていません。芸術において変っているのはその「表現形式」であって本質は変わりません。なぜなら芸術が向き合うべき「人間」が変わらないからです。人間とは相変わらず弱く愚かで迷い多く、老・病・死の不安に怯え、その不安定な存在と肉体の限界を突きつけられています。
 その証拠にモーゼの十戒もキリスト教義もイスラム教義も仏教哲学も数千年前と変わらず現代にシビアに適用されている。科学の真理がそれらを修正させたのは「ビッグバン宇宙」と「進化論」ぐらいでは?
 だから芸術はその「変わらない」宇宙の原理や人間の「原存在」やありとあらゆる「美」に、「徹底的に」純粋に、自由に、ウソなく向き合えばよい。そう言う当たり前のことが困難な時代なのですから。
 鈍感や無知や未熟であることもそれなりに幸せの場合もあります。ファジーでニュートラルならばその分楽だし安全。人や物事との間合いを計りながら及び腰で事に当れば大怪我すこともないし敵も作らない。与えられる情報や価値体系や権威には従ってれば間違いはないだろう。「右向け右全体進め!」もみんなそうなら怖くない。あっちも悪いがこっちも問題、しょうがない…創造に関係した「自我」や「主体性」にこういうことは許されない。勿論創造者のスタンスの違いはあります。「告発」も表現です。しかし縷縷述べたごとく人として、創造者として「当たり前」であること自体にも相当のエネルギーとリスクを要します。つまり「戦い」です。
 戦いながら自然や花や人物を描く、そういうことになるかと思います。