Ψ YAHOO掲示板「どうしたらうまくかけるの」より転載

これは方々で聞いたことですが、マンションや建売など日本の壁面事情やシリアスなものを嫌うという最近の「市民的保守主義」の国民性などから「愛される絵」とは「明るく、楽しく、賑やかで、スィートでハッピー」なものということのようです。
 そういう意味では私の作品は愛される絵ではありません。事実これは何度も話したことですが「お前の絵は暗い、硬い、活気がない、描写的過ぎ…」云々で随分冷や飯を食わされました。
 そういう時いつも私が思ったのは、そう思われるのは自分が未熟だから。そういう意味では古典絵画などみんな「真っ黒」だ。敬愛するコロ-も、ユトリロも、佐伯もみんな暗い。だが誰も文句を言わない。そんなものを乗り越える芸術としての強さがあるからだ。この未熟さを克服する事の方が先決だろうと。
 私ももっと「売れよう」と思ったら前記のような絵に方向転換していたと思います。しかし今そうしなくてよかったと思います。「曲≪芸≫阿世」の徒は必ず自分を見失い、行き場を失う。時代を追っかけていたら必ず時代に取り残される。何よりも美術史上の先達がそういうことを教えています。
 ところで私はよく例をあげるのですが、グランマ・モーゼスという画家がいます。「モーゼス婆ちゃん」です。彼女は75歳から絵を描き始め80歳で初個展、100歳過ぎても絵を描き続けました。その生い立ちから体系的にアカデミックな絵の修業をしたとは思えませんが十分その芸術性が評価されています。決して上手くはないのですが、素直でほのぼのとする、純粋無垢な絵です。これが絵の原点と思います。
 政治・経済からマスコミ文化まで兎角人の世はウソやハッタリやゴマカシやツクリモノに満ちています。因みにかの「内藤大助・亀田大毅」戦、あれはTBSが悪い!ミエミエの興業政策、やりすぎの演出、巧妙なマッチメーキングでの無理なスターづくりがその実体を曝け出したというだけです。自慢じゃないが私は一年以上も前に今日あるを予見してました。興味ある人はこちらをどうぞ。
http://blogs.yahoo.co.jp/asyuranote/40278137.html
 ともかくそういう中で自然や動物や花にホッとする時があります。それはそれらはその存在を精一杯ウソがなく晒しているからです。これが芸術文化が目指すべきものであり、その多寡はありますが、結果として真に「愛される絵」ということになるのではないかと思います。
 何処か思わせぶりで、衒いや胡散臭さや鼻持ちならなさを感じさせるようなものは少なくても人間性の深い所では受け入れられません。
 残念ながら本邦の他の芸術文化の中にはかなり商業主義やマスメディアのメカニズムに飲み込まれたものがあります。
 個性とは何も「ブタが空飛ぶ」ようなものではないし、芸術はなにも爆発する必要もない。要は「100万ありといえど我行かん」の覚悟と思います。背一杯ウソのない自分を晒せばよいのです。そうすれば少なくても人生を後悔することはない。 やるだけのことはやったという達成感を得られます。巧拙は二の次。しかし、どんな世界も甘くない。希求すべき「絵画的価値」というものは厳然とある。それを得る為の努力は必要。真摯で謙虚にそれと向き合うべき。それに背き邪道に走ったり、「感性」とか「個性」とかいうファジーなものに逃げ込んだり、形やスタイルからは入ったりするものは、良くても「一発花火」で終わってしまうでしょう。
 このINコミニュティーでも、着実に自己の世界を広げているのは、創造行為にもおいても思想表明においても真摯で純粋に自己を晒している人です。だから単なる暇つぶしや社交に終わらない人との出会いもある。その逆の人は行き詰まったり消えたりしてます。